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続 『人間はどこから来たのか、どこへ行くのか』

今回は前回の続編。本書については書き留めておきたいことが多いので、複数回に分けることにする。

第2章 私という”不思議のサル"
山極壽一 京都大学大学院理学研究科教授(現:総合地球環境学研究所所長)
山極の見立ては、人は他者との融合、和合のなかに己を見出す生き物だということだ。「他者の中に自分を見たがる」性質が「群れのという社会のなかに、さらに家族という単位をつくる」特異な社会を進化させたという。そして家族という単位を設けたことで教育という行為を可能にし、それが独自の進化をもたらした、というのである。

興味深いのは、一夫一婦制が文化の問題というよりも種の保存の問題を交えているという点だ。確かに、世界には一夫多妻の文化もあれば、その逆もあるかもしれないし、一夫一婦とは言いながら、二号三号を囲う人もいる。しかし、そういうのは一般的ではないということにして、家族という形態を形成するのは人類だけらしい。他の生物の様子を見て、そこに「家族」を見出すのは人間の側の幻想であって、群れを形成する生物は基本的に乱婚なのだそうだ。家族という仕組みは人間の精子の運動能力の限界を補うことと関係あるらしい。

人間の精子を調べてみると、運動能力はかなり低い。乱婚のチンパンジーなどとは比較にならないほど緩慢な動きであり、濃度も極端に薄い。これは子宮内競争があるか、ないかという違いに起因するそうだ。子宮内競争とは聞き慣れない言葉だが、チンパンジーはメスが複数のオスと交尾するため、いち早く卵子にたどり着かなくては子孫を残せない。つまり子宮内で精子同士のデッドレースが行われる。これが子宮内競争だ。
47頁

そうなると性行為のあり方が人間は特異ということになる。つまり、精子がおとなしいので、無事に受精させるためには行為の最中に邪魔が入ってはいけない。他の生物の交尾は大ぴらだが、人間は性行為を秘匿する。それは性交能力の弱さに起因する。そこで交尾環境の安定化のために家族という制度ができたという見方もできるのである。

食という点でも人間の特異性がある。霊長類は果実食が基本だそうだ。森で暮らしているなら、木から必要なだけ採食して、空腹になったらまた木に成っているものを同じように食べればよい。しかし、人間は森を出て草原に生活の場を移した。その過程で肉食が取り入れられた。小魚や小動物ならともかく、ある程度の大きさの動物の肉は一度に食べきれない。そこで複数の個体が協働して獲物を確保して共同で食べるという行動が生まれる。

人間の子は自立できない状態で生まれる。子育てが必要だ。それを可能にするのは共同作業、殊に共同食だ。自立できない赤ん坊を産むのは、直立二足歩行の代償だという。直立二足歩行に適した体型になったため産道の形状が制約を受け、他の類人猿に比べて未熟に生まれるようになったらしい。その代わり、未熟で出産するため他の類人猿より出産サイクルが短い。また、母乳だけに依存して生きる期間が人間は他の類人猿より短い。人間は1年から2年、ゴリラは最低3年、チンパンジーは約5年だそうだ。森を出て草原で暮らすようになったことで生存リスクが一気に高まり、多産かつ短乳児期である必要が生まれたということだろう。出産後、次の妊娠が可能になるまでに要する時間も人間は短い。

人間の場合、もっとも早くて40日で妊娠が可能になるそうだ。実際、年子の兄弟姉妹も決して珍しくない。ところが、ほかの類人猿はまったく違う。ゴリラの出産間隔はおよそ4年。チンパンジーで5年。オラウータンでは8年にもなるのだ。
57頁

人間が他の類人猿と違って、森を出て草原で生きることを選択し、草原での生存に有利なように直立二足歩行を発達させた。草原での生命維持のためにそれまでの果実食から肉食にも適応して栄養状態が変化する。直立二足歩行に適応した体型になることで、未成熟での出産かつ多産と、幼児育成のための一夫一婦という小社会の形成をするようにもなった。また、直立二足歩行は大きな脳と両手の自由をもたらした。

その脳の発達と両手の運用技能の向上には肉食が深く関係する。肉食の最初は、他の肉食獣の食べ残しを摂食したことだろうと言われている。肉食獣は獲物の胴体、内臓を主に食べる。このため、四肢の肉と全身の骨が食べ残しとなる。人間の祖先が肉食を始めた頃の肉はこの四肢と骨であった。肉は当然タンパク源だが、骨の髄も栄養価が高い。ただ、骨髄は骨を粉砕しないと手に入らない。当然、手先の器用さが要求される。高い栄養価と食べるのに一工夫必要な食物は脳の発達を促す。

言葉の由来を調べるのに、随分遠回りをしているようだが、人類の進化の過程を辿ってみないことには、どのあたりで言葉が登場するのかわからない。ここまでは主に人間個体の成長と家族の形成についての話だが、他の類人猿との比較で人間の大きな特徴がもう一つある。それは老年期の長さだ。

老年というのは生殖能力を失った後の期間を指す。よく長寿は衛生状態の改善と医療の発達によるものだとされる。しかし、医療が発達するなら生殖可能年齢も引き上げられて然るべきだ。実際は、多少の延長はあるものの、寿命の伸びほどに長くはならないのは、本来的に人間の老年期が長いという事情がある。生殖に関与不能の個体が生きていられるのはなぜか。これは、未解明ではあるが、未熟状態での出産と関係しているらしい。つまり、老人は未熟で生まれて手のかかる子の生育を補助する役割を追うているという面があるのではないかと言われているらしい。

また、人間には教育という独特の習慣がある。年長者が年少者に生活に必要な技能を伝授する。猿真似という言葉があるが、人間以外の類人猿は他の個体の行動を真似することはあっても教えるということはないそうだ。教育、すなわち、個体から個体へ意図を持って特定の知識や技能を伝えるには、共感という心理作用が不可欠らしい。

「共感というものがあるからこそ、自分が時間や手間を使っても知識のない子どもたち、仲間たちに教えようという感情が芽生える。もちろん人間だけが共感できるわけじゃありません。仲間のやっていることに対して自分は同調できる、そういう能力は霊長類ならもっていると思います。ただ、それを非常に人間は伸ばしたんではないかと思いますね」
69-70頁

この共感に大きな役割を果たす身体器官の一つが眼だそうだ。

「私たちに身近なニホンザルでも、食べているときは決して相手の目を見ませんね。やはりそれは相手に対する挑戦になってしまうんですよね。ところが人間は逆。わざわざ向かい合って、見つめ合いつつ食べることがふつうになっているわけです」
 見つめ合うのが人間だというわけだ。それが端的に表れているのが、目の構造だ。人間の目には、黒目と白眼がある。そのため、視線の微妙な動きで相手の感情の動きがわかってしまう。ところが人間以外の霊長類は類人猿でも、白目と黒目がない。
「人間に黒目と白目ができたのは、向かい合ってお互いに感情の動きを探り合うようなことが日常的になったので、そうなっていったんじゃないかと思うんです」
71頁

昨今は直接顔を合わせてどうこうするということが以前に比べて重要視されなくなった感がある。我々の暮らしは、科学技術の発達で、それまで不可能であったことが可能になったことで満ちているかのように思われている節がある。しかし、その陰でたくさんのことが失われているのも事実だ。人と人とが直接交渉せずに物事が進捗していくことで、人にとって幸福な結果が得られるものなのだろうか。

それはともかくとして、山極は人間について本書では以下のようにまとめている。

「人間が一人で独立して生きているんではなくて、他者とつねにこう融合、和合しながら生きているようになった、そこに本質があると思うんですね。要するに、他者と自分との境界をどこかで取り払うような社会性を身につけてしまったということなんです。それが教育を可能にし、家族というものを可能にし、そして家族を超えた地域社会というものをつくることを可能にしたんじゃないかと思いますね」
72頁

「他者との融合、和合」する生き物が人間であり、そこに言葉も生まれたということだと私は理解している。しかし、今の現実は個人が分断され断片化していく方向に進んでいるように見える。自分が生きている間に劇的な変化があるとは思えないが、自分の終わりが射程に入り、随分気楽になった身にさえも、どこか不穏な雰囲気を感じる。今更不安はないのだが、他人事ながら心配ではある。

あと1回くらい、本書について書いておこうと思う。

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熊本熊
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