月例落選
庭の梅拾う主無き開かずの間朝日に光る揺れるカーテン
(にわのうめ ひろうぬしなき あかずのま あさひにひかる ゆれるかーてん)
二百倍抽選当たり五十年夢の団地は廃墟の手前
(にひゃくばい ちゅうせんあたり ごじゅうねん ゆめのだんちは はいきょのてまえ)
燕の巣雛はまだかと見上る日黄昏時は慶事に飢える
(つばめのす ひなはまだかと みあぐるひ たそがれどきは けいじにうえる)
マスクしてピーチクパーチク声高に漏れるウイルス瞬殺口臭
(ますくして ぴーちくぱーちく こわだかに もれるういるす しゅんさつこうしゅう)
『角川 短歌』の最新号が届く。今月も選に漏れる。どんな歌を投函したかと手帳を開いたら、選ばれるはずはないと妙に納得した。上の四首がそれである。
最初の歌は、家から駅への途中にある二階建の戸建住宅を詠んだ。今暮らしている団地に引っ越してきた当時は、玄関と通りとの間の小さなスペースに赤いリライアント・ロビンが停まっていた。尤も、だいぶ長い間乗っていないようで、埃まみれだった。それよりも、庭に立派な紅梅が植っていて、春先には花と香、6月上旬には実と香を楽しませていただいた。今年は梅の出来がよく例年になくたくさんの梅の実を歩道に降らせていた。年老いた女性が一人で暮らしているようで、二階はいつ見ても全ての窓の雨戸が閉じられたままになっていたが、一階の窓は開いていることもあり、カーテンが揺れているのが見えることもあった。
半月ほど前だっただろうか、庭の木がほぼ全てなくなっていた。見出し画像の写真は今年2月20日に撮影したその梅だ。普段はスマホのカメラで写真を撮ろうなどとは思わないのだが、これが見納めの梅になってしまった。
二番目の歌は現在の住まいのこと。今暮らしている団地は築50年ほどになる。ほとんどの棟が五階建てで、各階段各階に二軒ずつ配置されている。階段当番というものがあり、回覧板の取りまとめとか自治会費の徴収などをするので、一応同じ階段の人たちとは顔見知りになる。私のところの階段は10軒中4軒が完成当時からの入居者だ。その方々から聞いたところ、この棟は入居申し込みの当選倍率が230倍だったというのである。敷地がかなり広く、私がいる棟は駅に近いので空きが出ても数ヶ月で次の入居者が決まるのだが、そうではない棟もたくさんある。URとしてこの団地を最終的にどうするつもりなのか知らないが、いつまでもこのままというわけにもいかないだろう。
三番目の歌は燕のこと。今年は燕が気になる年なのかもしれない。駅前のマンションの一階の軒にやってきた燕は、とうとう雛を巣立たせることなくどこかへ行ってしまった。自分には何の関係もないのだが、少しがっかりしてしまった。人生の黄昏時を迎えている所為か、喜ばしいことに心が飢えているような気がする。
四番目の歌は通勤のこと。毎朝5時52分に出発する電車に乗って通勤している。帰りの時間はまちまちだ。朝はたいがい静かなのだが、帰りの夕方の車内は時に賑やかだ。微妙な年齢のご婦人方であまり周囲へ気遣いをするという習慣がない人たちと乗り合わせることもある。たまに、その喧しさに加えて、加齢臭なのか歯周病なのか強烈な臭いを声と共に発している人もいて閉口する。
さて、今月号では特選や秀逸に選ばれたものには特に惹かれるものはなかったが、佳作のなかに好きな作品があった。
佐藤通雅先生選
国挙げて奨励されるオンライン心を繋ぐ糸が見えない
(千葉県 松岡芳博)
「アンケートに協力下さい」ワンコインで売り買ひされるわたしの秘密
(奈良県 上田惇子)
藤原龍一郎先生選
子は鮑、夫は栄螺と採り分けて短く終える時化の日の漁
(長崎県 田中光子)
雪岱の画集をめくり「春雨」にはじめて肩が触れあっている
(東京都 熊倉アンナ)
佐藤弓生先生選
「コロナ禍で家族の絆が深まりました」暗記するほど独りで聞いた
(福岡県 高橋一美)
雪岱の画集をめくり「春雨」にはじめて肩が触れあっている
(東京都 熊倉アンナ)
熊倉さんの歌は二人の先生から選ばれている。図書館とか大型書店のような、肩が触れ合うことに気づかなかったり意識しないようなところで若い二人が小村雪岱の画集を眺めていて、「春雨」のところで肩が触れあったということだろうか。人は誰かと肩が触れあってドキッとするうちが華で、ムッとするようになったら黄昏時だ。私は夢の中では誰かと肩を並べて楽しく語り合うことは今でもある。ところが現実では、一体どうしたら肩が触れあったくらいで相手を意識できるのだろうと、そういう方面の記憶は心の深層奥深くに埋没してしまった。
2010年2月4日に埼玉県立近代美術館で小村雪岱の展覧会を観た。会場は混雑している風ではなかったが、図録が売り切れていた。図録が売り切れるのはもっともなことで、これほど感心した展覧会はそうザラにあるものではない。海外から有名な作品が来たり、近頃では伊藤若冲の企画展だったりすると闇雲に並んだりするのだが、そんなものでろくなものはないと思う。モナリザだって、ルーブルに行けば多少人だかりができている程度のものだし、若冲だって、静かなところで観るから良いのであって、「ハイ、立ち止まらないでください」なんて急かされながら観るくらいなら他のものを観た方がいい。2014年にその雪岱の図録が一般書籍として東京美術から発売された時に予約して購入した。それをめくりながら「春雨」という作品を探したのだが、そいうタイトルのものは見つからなかった。ただ、雨が降っているところを描いたものはいくつもあって、どれも肩を触れ合わせながら観るのに良い。
埼玉での展覧会には雪岱が口絵、挿絵、装幀などを手がけた書籍が多数展示されていた。『昔日の客』のところでも書いたが、本は内容もさることながら装幀とか口絵が大事だと思う。そういう物理を含めての作品で、装幀だけでも感動を与えることは可能であるとすら思う。現に、こうして写真で雪岱が手がけた本を眺めているだけで、熱いものが込み上げてくる。『紅梅集』は鏑木清方との合作だそうだが、装幀だけ国宝にしても良いのではないか。