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谷崎潤一郎 『痴人の愛』 新潮文庫

先日、知人の藍染の服を着て街を歩いていたら、知人の亜衣ちゃんに出くわした。新潮文庫の「夏の100冊」にある『痴人の愛』を読んでどうのこうのという話をしていた。ちょっと読んでみようかなと思い手にした。

冗談はさておき、本をあまり読まないほうだ。7月に娘とホキ美術館へ行って、帰りに東京駅丸の内側にある丸善に寄った。彼女は毎年夏の文庫販促の一環で店頭に並ぶプレミアムカバーなるものを積極的に買うのだという。その時は、ただ聞き流していた。

先月、勤めの帰りに自宅の最寄駅に電車が着いたところで大雨に遭った。スマホで雨雲レーダーなるものを見たら、30分ほどで雨が上がる予報を表示していたので、駅ビルにある書店で時間を潰すことにした。すると、そこにプレミアムカバーの特設売り場のような一画があり、前月に丸善では見かけなかった姿の文庫本が一通り並んでいた。とりあえず、一冊ずつ一通り買っておいた。

後日、娘にその話をしたら、「これはいらない」と引き取らなかったものが2冊あり、本書はそのうちの一冊だ。普段、小説は読まないのだが、これも何かの巡り合わせかもしれないと思い読むことにした。なんだか、しょうもない話だった。

世に言うところの「ブンガク」というものが一体どのようなものなのか知らないのだが、本書の登場人物は悉く「痴人」で、その人たちが狂騒しているだけのようにしか思えなかった。尤も、人の人生というのは、本人にとっては一大事だが、他人から見れば狂騒でしかない。そんなことは分かりきっているが、分かりきっていることを手を替え品を替え表現して見せることに値打ちがあるのかもしれない。分かりきっているからこそ、読者に響くのだろう。そして「プレミアム」カバーがかけられて店頭に並ぶのだろう。

新潮文庫のXのポストより

それで、なぜホキ美術館に行ったかというと、シズさんのnoteの記事を読んだからだ。この美術館に並ぶ作品は「写実絵画」というものだが、絵画とはそもそも写実ではなかったのか。カメラが登場して絵画は写実から解放されたのだろうが、そうなってみると描き手のほうは余計なことを「表現」するようになってしまった。それはそれでクスッと笑えたりするのだが、画面が喧しくて落ち着かない。人は結局、落ち着くことができないものなのかもしれない。

そう言えば、アンリ・ルソーは写実絵画を描いているつもりだったらしい。同じもの、同じことを前にして、全く別のものを認識し、その上でわかり合えるのが人間というものなのだろう。逆の場合もあるかもしれない。全く違うことを思い描きながら、同じものを見ているつもりになって意気投合するとか。しょうがないではないか。痴人だもの。

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