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続続 『宗教の起源』

通勤に京王線、都営新宿線、都営三田線を利用している。都営三田線の大手町駅で下車して改札へ向かう階段を登り切ったところに、さまざまなフリーペーが並ぶスタンドが置かれている。改札を出て職場まで地下道を歩くと、途中に東京メトロ千代田線の改札があり、その傍らに別のフリーペーパーのスタンドが置いてある。これらのフリーペーパーを読むのを楽しみにしている。数ヶ月前から都営大手町駅の改札の内側のスタンドに大阪大学の小冊子が並ぶようになった。先日まで並んでいたのは『ひとの正体』というもので、8人の研究者が紹介されている。
 石黒 浩 栄誉教授(大阪大学大学院基礎工学研究科)
 細田 耕 教授(大阪大学大学院基礎工学研究科)
 長井 隆行 教授(大阪大学大学院基礎工学研究科)
 北澤 茂 教授(大阪大学大学院生命機能研究科)
 中野 珠実 准教授(大阪大学大学院生命機能研究科)
 赤坂 亮太 准教授(大阪大学社会技術共創研究センター)
 浅田 稔 特任教授(大阪大学先導的学際研究機構)
 檜垣 立哉 教授(大阪大学大学院人間科学研究科)
所属表記は本冊子取材当時のもの、との注釈がある。

この冊子の中で北澤教授の楔前部けつぜんぶの研究が紹介されている。楔前部というのは大脳の頭頂葉後方にあり、視覚情報の処理に深く関わりがあるものらしい。

 楔前部が注目されるようになったのは約25年前のこと。米国人のマーカス・ライクル博士が提唱した「デフォルト・モード・ネットワーク」(DMN)を構成する要素として登場した。DMNは人間がぼんやりして、白日夢を見ているような状態の時に盛んに働く神経活動だ。しかし、複雑な計算をこなすなど、脳全体の活動が活発になると楔前部への血流量が落ちることも確認されており、その時点では楔前部が重視されるには至らなかった。
 最近10年ほどで、脳内のネットワーク構造を解析する技術が確立され、150億個あるニューロン(神経細胞)のそれぞれが、多数のニューロンとつながる様子がつぶさに観察できるようになった。ニューロン同士のつながりを図式化すると、世界中を飛び交う航空機の路線図のようなネットワーク図が出来上がる。空港の中には主要都市への直行便が発着する拠点となる「ハブ空港」と、行き先が限定的な「ローカル空港」があるように、ニューロンの役割によって、神経回路の密度にも大きな濃淡があることが鮮明になった。
 ネットワーク図を観察すると、中心に位置しておびただしい数の神経回路とつながっているのがDMNであり、中でも楔前部に多くの情報網が結集していた。これまでの予想と異なり、楔前部が神経ネットワークの「黒幕」とする考えが、いよいよ有力になってきた。

大阪大学『「ひとの正体」奇才たちのスペシャリテ』26-27頁

このDMNが社会集団の規模と関係するらしい。自他の別は「自分」という認識の核となるものの存在への信頼感でもある。「私」はそれを支える関係性の総体であり、その関係性の認識と維持管理は脳の力量に依存する。解剖学的には、前頭前皮質、側頭葉、側頭頭頂接合部、大脳辺縁系にまたがった脳領域の容量と関係があるらしい。

 社会集団の大きさは脳の大きさが決める——この説をさらに裏づけるのが、十数件にのぼるヒトを対象とした脳画像研究だ。友人や家族(被験者が提出した名簿や、フェイスブックで認定した友だちを数えた)が多い人ほど、脳の特定領域の容積が大きいことがわかったのだ。密接につながったこの脳領域はデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)と呼ばれ、前頭前皮質、側頭葉、側頭頭頂接合部(TPJ)、大脳辺縁系にまたがっている。このネットワークは、感覚入力の処理のみを担当する脳領域(脳後部のほとんどを占める視覚系など)を除いた新皮質の大部分を占めている。これらの脳領域は生命を持つものを認識し、他者の信念や精神状態を理解して、さまざまな関係を管理する。

103-104頁

当然と言えば当然だが、我々の知性も感性も身体感覚も脳が司っている。脳は神経細胞の塊で、その機能は解剖学的に説明がつくはずだ。脳は「化学袋」と呼ばれることもあり、薬剤で人格をどうこうするというような研究もあると聞く。神経の刺激は化学反応でもある。尤も、我々の身体はまだまだ解明途上で、脳の機能に至っては依然として謎が多いらしい。確かなことは、我々の脳は20万年ほど前に我々ホモ・サピエンスが登場して以来、ほぼそのままの規模と形態を保っていることだ。もちろん、20万年前と今とでは生活の様相は全く異なるはずだ。同じ脳を持ちながら、同じハードウエアを持ちながら、思考の蓄積と知恵によって、ソフトウエアの更新によって、20万年前から今日まで人類は種としての存在を継続してきたということなのである。つまり、自他の認識という根本のところは20万年前から変わっていないはずだ。

現在の世界人口は約80億人。おそらく、我々の脳にとって、同朋が80億もいる世界というのは想定外だろう。脳の能力として、維持可能な共同体の規模はどれほどなのか。本書では他者の認識について同心円モデルで説明している。様々な観察や実験の結果として、狩猟採集民から現代人の社会まで、150人をひとつの社会構成の単位としていることが既知のこととされている。ちなみに、猿人の社会はチンパンジーと同程度の50人、原人段階では100人とされている。

 つまり産業革命が起こるまで、世界のほぼすべてで共同体の大きさは決まっており、それは長きにわたり驚くほど一定していたようだ。もちろん町や都市に相当するもっと大きな共同体もあちこちにあっただろう。だがそんな都市は珍しく、例外なく政権(小さな王国、地域の君主)の中枢が置かれていた。ところがこうした中枢都市が出現したのは約8000年前の新石器時代のことであり、さらにその後も小さい共同体が標準だったようだ——個人の社会ネットワークは今もそうだ。150人という数字には、規模と安定性において人間の心理に根ざす何かがあるようだ。

109頁
105頁

この同心円構造の重要な特徴は、接触頻度と親近感、助力意欲に対応していることだ。お返しを期待することなく助けたい気持ちは、外側の円よりも、150人までの円の内側にいる人たちに対してのほうがはるかに強い。さらに150人のなかでも、どの層にいるかで利他行動の度合いは変化する。逆にいえば、私たちは中央の円にいる人たちに対して、必要なときに助けてもらえることを期待しているし、外側の円にいる人たちにはそんなことは期待していない。それを確実にするために、私たちは社会的な努力の多くを中央の円にいる人たちに集中させる。一日のうち社会的交流に使う時間は平均3時間半だが、その約40パーセントは同心円の中心の5人に、60パーセントは次の同心円の15人に費やすのだ。あとのわずかな時間は、残り135人に薄く広く分配しなければならないので、一日あたり平均30秒足らずになる。

106頁

自身の毎日を眺めてみると、同心円の中心付近には家族、少し離れてその時々の近しい人々、あとはそれ以外、といったところか。友達がいないのでさっぱりしている。しかし、「自分」というのは今ここに至るまでの蓄積の上に成り立っているはずなので、そういう無数の関係性の残滓や記憶も重要な要素だろう。そういうものはこの構造図のなかでどのように位置づけられるのだろうか。

世間では、「自分」は当たり前のように最初から揺るぎのない存在であったかのように認識されている節があるが、おそらく、人類という生物種が現在の状態に至る過程で種として積み重ねてきた無数の試行錯誤の末に獲得した暫定認識なのだろう。つまり、仮置きであって、それほど頼りになるものではないのである。しかし、とりあえず生きているという現状認識もあり、「自分」を把握できないままに現状が進行してしまうことへの言いようのない不安への対処が迫られている。その上、個体としてはあまりに無力で自立できない。つまり、本来的に人は不安から逃れられない。そこで、人は集団を形成し、「生きる」というひとつのことを共同・協働して解決することで安心を得る選択したということなのだろう。

宗教はそうした共同・協働のひとつで、それぞれの集団が置かれた状況に対応したものなので、生活環境が多様である限り、単一にはなりようがないのである。それでも環境の多様性を超えて大規模に発展したものがあるが、それらはいずれも教義宗教だ。聖典を備えることで教義をある程度固定し、意味内容の共有規模を拡大することができる。現在の我々の社会で、秩序が法律や国家権力によって一律に守られているのに似ている。実際に宗教が法律のように機能している国や社会もある。

無理に宗教を引っ張り出さなくてもよいのだが、書名が『宗教の起源』なので、書き添えた。150人が共同体の単位である人間が、今や80億にまで膨張して生きている。そりゃ、無事では済まないわな、って思うのである。神仏がどうこうということはともかくとして、我々は一人で宗教、政治団体、国家、企業、その他150人を優に超える規模の団体にいくつも所属することで、人類全体として「150人程度の安定」を実現しているのかもしれない。

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熊本熊
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