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夏の思い出 第585話・8.30

「乗るんですか? もう出ますよ」「あ、乗ります。待ってください!」
 私は突然訪れた別れを忘れようと旅に出た。ここは沖縄県・八重山諸島にある西表島。島の南東にある大原の港近くで、レンタカーをチャーターして向かったのが西にある白浜と言う港なの。

 ところで別れと言っても、恋人と別れたのではない。実は10年間、飼っていた猫のマーリンが、先月ついに天国に旅立った。あの仔は私が残業でどんなに遅くなっても、家に帰ればいつも待ってくれて「にゃー」と鳴いてくれる。
 そして丸い瞳を潤ませて、私に訴えるように見つめてくれた。それを見ただけで、毎日どんなに嫌なことがあっても癒してくれる。でも、もうマーリンはいない。

 あの日から毎日が悲しかった。家に帰ってもあの鳴き声も、潤ませる瞳ももう見られない。あの仔の写真はある。白く美しい毛並み。でも顔を見ても動かない。いつ見ても同じ表情しかしないのよ。
「マーリン、どうして黙ったままじっとしているの?」私は写真を見るたびにいつも悲しくなる。
「そろそろ気分を変えたい!」と思って、今年の夏季休暇を利用して来たのが、西表島。なぜって、ここには有名なイリオモテヤマネコがいるから。

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「凛々しい顔をしているわ。やっぱり山の仔は違う」私は白浜から船浮集落に向かう船に乗り込むと、先ほど撮影した画像を見てほほ笑んだ。島にはイリオモテヤマネコの像があるからさっそく撮影。絶滅危惧が心配されている特別天然記念物のヤマネコは、ベンガルヤマネコ属に属しているので、飼い猫が属するネコ属とは本来別物だ。
 それでも私は八重山に来たかった。それは元々石垣島のことが前から気になっていたから。けどどうせなら、もうひとつ別の島に行こうと思っていたときのこと。調べたら西表島は猫が名物だと聞いて『これは来るべきところだ』と思ったのね。

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 気がつけば船は白浜港を出港した。向かう先は船浮集落。西表島は全体的にジャングルで囲まれていて、県道一本しかない。そして白浜港は西の端。
 なぜそこに行くのか? そもそも最初はその場所など知らなかった。私が持っていた西表島の知識と言えば、ヤマネコのことと、ジャングルに覆われていることくらいだったから。

「これは、船浮への船便です。本数が限られていますから、注意してくださいね」
「ここは?」私が素朴な疑問をぶつけると「あ、舟浮ご存じないのですか。それならぜひ行ってみてください。ここは本当に感動しますよ」と、地元レンタカーの人が言ってくれた。

「地元の人が行ってくれるのだから間違いないわ」私はそう思って、島を半周近く走って白浜港まで来た。そしたらちょうど船が動き出す時間だったの。ぎりぎりセーフ。これ逃したら、2時間待たないといけないから乗れてよかった。

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 船は15分くらいであっけなく到着。ちなみにここは離れた島ではない。西表島の一部。でも白浜港から先には道がなく、ジャングルが広がっている。地図を見る限り、そのジャングルを突き抜ければ陸路ででも行けそう。でもそれは事実上不可能。つまり船しかこの集落に行けないのよ。
「さて、ここには何があるのかしら?」

 レンタカーを駐車している白浜港への船は2時間後。来てはみたものの、ここは小さい集落で、海以外何もなさそう。「来たけど、うーん」
 私は観光案内図を見たけど、本当に小さいから、すぐに山とジャングルが迫っている。10分程度でほぼ集落を回った。そのときイリオモテヤマネコがいないか、期待したがやっぱりいない。
「ここで2時間スマホでも見る? せっかく来たのに、つまんない」
 私はどうしようか迷ったが、どうやら港のある場所とは反対側の海に出られることが分かった。「イダの浜か、行ってみよう」

 イダの浜へは、集落から道がある。最初は集落を奥に行くが、やがて右手に塔のような建物を過ぎると、いよいよ亜熱帯のジャングルの中に入った。ただ頻繁に行くようなところのようで、道はわかりやすい。私のようにこういうところに、普段行き慣れていない人間でも、問題なく歩ける。

「地図と違って、結構遠いわね」私はすぐに、反対側の海に出られると思っていた。だけどちょっとそれは都合が良すぎ見たいで、少し歩く。
 自然の道だから高低差がある。それにどうしても石などが所々でむき出しになっていて、正直歩きづらい。「もうあきらめようかなあ」途中でそんなことが何度も頭の中でよぎる。けどここで引き返したら一生後悔しそうな気がした。
「そうだ、ヤマネコがいるかも」私はまた余計な期待。ヤマネコを探しながらさらに先に進んでみる。

「あれ?」私はそれまで風で揺れる木の音とは明らかに違う音がした。「これは波の音。近い!」そしてジャングルの隙間から、エメラルドグリーンの海が見えてきた。

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「やっぱり来てよかった。これは素敵!」私はついに素晴らしい絶景を見た。日本の最果て八重山諸島。そして石垣島からフェリーでやってきたジャングルの西表島だ。その島の中でも最も西の端から船で来た陸の孤島・船浮。さらにジャングルを歩いてみた美しいビーチ・イダの浜に来れた。
 最果ての地は、まさしく天国の名にふさわしい絶景。私は今までのことをすべて忘れた気がしたわ。

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 海を眺めて気づいたのは、サンゴ礁のためか、海が見事に3色に分かれていた。一番近い浜辺には薄い色、その途中にある色はサンゴ礁? の濃い目のエメラルドグリーンになっている。そして最も奥に見えるブルーのラインは外洋かしら? 
 そして水平線の先には、亜熱帯の青空とアクセントのような薄い雲、さらに下の方には、名前もわからない小さな島がふたつ見える。
 この風景から聞こえるのは定期的な波の音、そしてときおり感じる潮風と肌に突き刺す熱い光。

「あれ?」私はなにか、波とは違う音、猫の鳴き声が聞こえた気がした。振り向いたが、なにもいない。すると次に、通って来たばかりのジャングルに何かが動いた音が聞こえた。
「え? もしかしているの? イリオモテヤマネコ」私は音のする方に慎重に向かう。そして影が見える。「いた!」だが私は一瞬目を見張った。その顔と形がマーリンそっくりだから。

「マーリン、帰ってきたの?」私は心の中でそう叫ぶと、静かにスマホを構えた。そしてシャッタを押した直前、マーリンそっくりの猫は、素早く奥に逃げてしまう。「あ、残念」
 私は悔しがったが後の祭りだ。画像には写っていない。さてあれは本当にイリオモテヤマネコ? それともマーリンの亡霊。私は頭が混乱した。

 こうして船の時間になる。船浮から白浜港に戻り、レンタカーに乗り込む。
「あの仔がマーリンの幻かどうか、私にはわからない。でも、もう一度私に会いに来てくれた気がする。よしこの旅から帰ったら最初に探しに行こう」
 私は決めた。マーリンに代わる新しい仔を家に迎え入れることを。



※こちらの作品は、実際に行って楽しんだ西表島の思い出を元に、私の方で手を加えたものです。

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シリーズ 日々掌編短編小説 585/1000

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