見出し画像

婆羅島の夕日

「今日は2月20日。忘れられない日ね」
 結衣は、家から歩いて行ける海岸に来ていた。時間は夕暮れどき。間もなく日が沈もうとしている。
 雲の無い夕日は、上空から水面下までいろんなオレンジ色のコントラスト。その下に広がっている海に至っては、表現しようもない色に染まっていた。本来なら美しさのあまり「うっとり」しそうなこんな素晴らしい時間。だがこのときの結衣は違った。

「なんで、あんなケンカしちゃったんだろう」結衣は3日前の夜のことを思い出していた。結婚して3年目。確かに倦怠期に近いのかもしれない。
 まだ子供もいなかった。3か月前からちょっとしたことで衝突していたのは事実。でもそれほど気にはしていなかった。だけどお互い口数が以前より減った気がしていたのは確か。

 だが昨日は今までにない大げんかをしてしまう。お互い溜まっていたのか? あんな罵り合いに近いような口論なんて今までなかった。

「それも、次の日から出張だというのに... ...」結衣は言葉のたびにため息。
 ケンカして不貞腐れてそのまま寝た翌朝早くには、すでに夫の姿はなかった。2日前の朝に黙って立ち去ったのだ。
そのときに謝罪のメッセージでも電話でもやればいいのに、意地を張ってしまい結局この日を迎えた。向こうからも音沙汰無し。

「今日の夜帰ってくる。どうしよう... ...」結衣はまた、ため息をついた。
 ふと顔上げると、オレンジの光が結衣の視線を突き抜ける。ここにきてようやく夕日の美しさを認識。
「そうだ、言ってた。今日って旅券の日っだってね」と思い出した途端、5年前の記憶がよみがえった。


ーーーー

「結衣ちゃん知っている? ボルネオ島って漢字では婆羅島って書くんだよ」あれは夫・智也と初めて出会った。マレーシア旅行のとき。

 2016年2月、結衣は友達2人とボルネオ島に来ていた。これは大学の卒業旅行。元々中学からの仲良しふたりに、いつの間にか結衣が仲間に入ったメンバーである。そのため主導権はそのふたり。彼女たちが行きたかったのは、マレーシアのボルネオ島だったのだ。

 コタキナバルについて、2日目は現地の1日オプショナルツアーに参加した。内容はキナバル公園の植物園と足湯のポーリン温泉。そして吊り橋のキャノピーウォークが入ったオーソドックスツアー。
 このツアーは結衣たちだけではなく、様々な旅行者と合流する。その中にひとり旅をしていた智也がいたのだ。

 この日は結衣たちと智也以外は、欧米人のファミリーとカップルの4組で移動。年も同じだった智也と結衣たちは必然的に仲良くなり、グループとして一緒に回った。そして特に惹かれたのは結衣。
 ひとめぼれとかそういうのではなかった。ただ一緒に居るだけで、安心感がある気がしたのだ。

 だから翌日ついに行動に出る。あとのふたりは日帰りでブルネイダルサラームという小さな国に行くことを決めていた。だがここで結衣は「私やっぱりコタキナバルに残る」と言う。「え、結衣。何で?」「うーん、たまにはひとりでのんびりしてもいいかなって」

 これは嘘である。ひそかに連絡を取り合っていた智也との1日デート。ひとつ間違えれば、友情にヒビが入りかねないことを大胆にもやってのけた。
 ちなみに友達2人にバレたのは1年半後。でも時間的な開きがあったのか? 結局友情関係のダメージは無かった。

「僕のために時間を作ってくれてありがとう」
「ううん、あのふたりは私と違って、中学のころからの本当の親友だから」

 こうしてふたりはコタキナバルで1日デートした。この日は日曜日。午前中は、中心部のガヤストリートで行われるサンデーマーケットを回り、仲良く昼食。そして午後はサバ州立博物館を見学した。

 その後「夕日を見よう」と智也が言ってくれたので、ついていく。ところがここで予定が変わってしまう。移動しようにもバスもタクシーも見当たらない。
「歩いていこう。結衣ちゃん歩ける?」「うん、智也君大丈夫よ」と結衣は気軽に答えたものの、未知の国の道路を歩くのは想像以上に大変。
 天気も良く、灼熱の日差しが肌を襲う。ペットボトルの水は持参しているが、あっという間になくなっていく。口から吸収した水が体内で汗に変換され、体から水滴となって滲みでる。
「ちょっと、ねえ。こんなことだったらビーチで泳いだら良かったね」「ごめん、もうちょっとだから」
 結衣はすでに限界に近づいていた。デートなので笑顔を絶やさないように努力したけどもう無理。明らかに辛そうに引き吊った顔をしていた。でも智也は気にすることなく、声をかけて励ます。

 そして、ようやくビーチに到着。「タンジュン・アルビーチだ。夕日に間に合った」

画像1

「ああ、よかった」夕日への感動よりも、たどり着いたことへの安ど感が結衣の全身を覆う。思わず倒れこみそうになったが、周りには多くの観光客や地元の人がいたので、おかしな動きをすることなく理性を保てた。

「今日は2月20日。確か天正遣欧少年使節が長崎を出発した日だ」

「え! それは一体」突然不思議なことを言うので結衣が智也の顔を見る。
 智也は夕日に視線を送りながら答える、「ああ、安土桃山時代に九州のキリシタン大名が少年をヨーロッパに派遣した使節団のこと。ヨーロッパに行ってローマ教皇にもあったそうだ」

「え、キリスト教? でも、キリスト教って禁教になるのよね」
「うん、彼らが戻ってきたときには少し雰囲気が変わって、少年の中には処刑された人もいる。僕、長崎でカトリック教徒だから、その話を子供のときから嫌というほど聞かされているんだ」
「そうなんだ」「彼らはヨーロッパに行く途中、マカオ、マラッカ、ゴアを経由している。だから彼らもマラッカで、今の僕たちと同じ夕日を見ているのかなってふと思った」

「マラッカ? ここコタキナバルよ」「うん、でも同じマレーシアだから。あ、そうそう。この後、僕はマラッカに行くんだ」
「いいなあ。さすがに私はマラッカまではついていけないわ」
「じゃあ、日本に帰ったらまた会おう。日本の夕日だけどこうやってふたりで見に」と智也は微笑むと、釣られるように結衣も微笑んだ。

 ちなみに夕日の名所だけに多くのタクシーが待機していた。他の客に取られる前に慌てて1台確保。無事に市内中心部に戻って、デートはお開きとなる。

ーーーー

「今日は旅券の日で天正遣欧少年使節が長崎を出発した日。夕日がきれいだなあ」「え?」結衣が声のするほうを振り返ると、そこにはスーツ姿の智也がいた。

「あ、あれ、出張から戻ってくるの夜じゃ」突然のことに結衣は思わず目を大きく見開く。
「うん、その予定だったけど、最終日の会議が早く終わったんだ。夕方に家に戻ったら結衣がいない。ここかなと思ったらやっぱりそうだ」

 突然現れたケンカ中の夫。彼は笑っているが、ここは収めなければと結衣は慌てて「あ、あのう、ご、ごめんなさい」と謝る。
「え、ああ、あのときのこと。もう忘れてた。気にしない」と余裕の笑顔。

「でも、そしたら何で今まで連絡くれなかったのよ。行きの移動中とか」ちょっと不貞腐れ気味の結衣。
「あ、ごめん、こっちが謝らなければ。今回は重要な商談があったから君のことを考える余裕がなくて」とバツの悪そうな表情で智也は頭を何度も下げる。
「じゃあ帰りは?」ちょっと膨れた表情で結衣の追及は続く。

「うーん。それだったら直接会ってからでいいかなって。でも先に謝られちゃったね」と智也は照れ笑い。
「何それもう! でも一緒にまた夕日見られたね」
「うん、5年前を思い出すな」智也の言葉を聞くと結衣は間もなく沈もうとしている夕日を正面に見据える。そして自然と智也に体を寄せるのだった。


※次の企画募集中(本日は主催者である私がこの企画に参加しました)
 ↓ 

皆さんの画像をお借りします

こちらから「旅野そよかぜ」の電子書籍が選べます

https://www.amazon.co.jp/s?i=digital-text&rh=p_27%3A%E6%97%85%E9%87%8E%E3%81%9D%E3%82%88%E3%81%8B%E3%81%9C

ーーーーーーーーーーーーーーー
シリーズ 日々掌編短編小説 396

#小説 #掌編 #短編 #短編小説 #掌編小説 #ショートショート #画像で創作2月分 #東南アジア小説 #ボルネオ島 #コタキナバル #旅券の日

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?