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「書く」という主体的な営みが成長を促す。
与えられた課題に苦しんでいる後輩たちの姿を見ていると「書く」のか「書かされる」のかという違いがもたらす影響は、思ったより大きいかもしれない、と思うようになった。
私の人生を振り返ると、社会人になるまでは単純な行為としての「書く」ということに、苦痛が伴っていた。夏休みの作文を書く、日記を書く、小論文を書く。当然、国語は大嫌いだった。その時の私にとっては、どれも「書かされる」ものだった。
社会人になってからも「書かされる」は続いた。マニュアル、議事録、レポート、企画書、報告書、日報、月報。私の本業は、患者さんのケアだ。それなのに、「書かされる」は減るどころか増える一方だった。
どれも退屈で、できれば無くなって欲しい仕事だと思っていた。
しかし、ある時期から自己改善のために、日記を書く習慣を取り入れてみた。毎日繰り返すうちに、あんなに嫌いだった「書く」という行為が
驚くほど楽しく感じるようになった。自己改善という本来の目的ではなく、「書く」こと自体に喜びを感じたのだ。
そうなるとは全く予想していなかったが、この時おそらく「書かされる」から、自らの意思で「書く」という主体的な営みに変化したのだと思う。
「書く」という主体的な営みは、日記にとどまらず、退屈だったはずの仕事にまで広がった。依頼された当初は「書かされる」ものであったとしても、作業の過程において自分が好きな言葉を選び、好きな文章のリズムを選び、伝えたいメッセージを選ぶことができる。
もちろん依頼者の要求は無視することが出来ないが、そこには自らの意思で「書く」ことができる程度の自由度が存在することがわかってきた。
そうしているうちに「書く」という行為が含まれる仕事であれば、やり方次第では、どこでも主体的に「書く」という楽しみを潜ませることができることに気づいた。
するといつの間にか、仕事の全体、つまり「やらされる仕事」自体が、自分の意思で「やる仕事」にも変わっていた。「書く」という主体的な営みには、目の前のやるべきことを楽しいことに変えてしまう力があるようだ。
「書く」ことについて考えていると、後輩たちが苦しんでるからといって、原因になっている課題を取り除くことは、本質的な解決策ではないように思えた。その代わりに、「書く」という主体的な営みがいかに楽しいことで、成長していく力になるかを伝えることの方が役に立つのではないかと思う。「書かされる」機会にも感謝だ。
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