車椅子乗車拒否問題について思うこと
この問題はずっと考え続けていたのです。
内容が繊細な物であると思います。でも、私はいつだって、自分が気になることは見て見ぬふりはしないと決めているので、自分の丈に合った内容を無理せず書いてみます。
この問題について書くことは一種の賭けでもあります。賭けられるのは読んで下さっている方たちを信頼しているからです。様々な議論が起こるのは当たり前の事です。それだけいろいろな立場の人の視点が交差していく問題だと思うからです。
1.記事のご紹介
今回は一つの記事をご紹介させて下さい。
yuki otaさんの記事です。
その中にある記事も貼っておきます。
私は、このyuki otaさんの記事の内容が読んでいて1番フィットしている感覚がありました。なので、ぜひご一読頂きたいのです。(ご紹介することについてご本人の同意を得ることができました。感謝しております。)
yuki otaさんはnoteの記事で数多くの社会的な問題を取り扱っていらっしゃいます。(私がnoteを始めた初期の頃にフォローさせて頂きました。)
その語り口は非常に穏やかですが、問題を確実に捉えて浮き彫りにしているなぁと毎回感じます。最近だとsoarの問題について取り上げていました。私も大変行方が気になっていた問題であったので、読んでいて少しばかり頭を整理することができました。
さて、乗車問題ですが、私にはyuki otaさんの記事の内容以上の物は書けません。
しかし、違う入り口からなら少しだけ書けそうな気がしています。今から書くことは全く関連がない話でもないと思うのです。今回はその内容を無理なく書いてみます。
2.深慮主義について
「わたしの身体はままならない」という本を最近読んでいます。(2020年河出書房新社発行)
この本は「障害者のリアルに迫るゼミ」という東京大学駒場キャンパスで2014年に始まった自主ゼミが広がりを見せ、2019年に全国8大学で展開された講義の内容を元に書かれた本です。
その中で熊谷晋一郎さんの章があるのですが、その一部分をご紹介いたします。
最近お勧めの本に、平井秀幸さんの博士論文を単行本化した『刑務所処遇の社会学ー認知行動療法・新自由主義的規律・統治性』があります。彼はその本の中で、「深慮主義」という言葉を使って、いま社会には深慮主義が蔓延している、と書いています。けんかっ早い人、暴力的な行動をする人が、まっ先に排除される世の中になっていると。ダイバーシティの理解がされ始めているように見えるけれど、それは深慮できる人に限ると、引用で紹介しています。深慮主義からこぼれ落ちる人が障害化されていて、そういう人たちが刑務所に集中して隔離されている。そんな状態を描いた研究です。
非常に鋭く、世の中の姿を焙り出した作品です。
伊是名さんを批判している方たちは、彼女の訴え方の方法について言及しているものが多く見受けられるような印象があります。
しかし、彼女はなぜこのような訴え方になってしまったのでしょうか。
彼女の横の地点に並んで、同じ風景を見てみようという想像力を、少しでも働かせているのでしょうか。もちろん全く同じ目線になることはできません。それは、私たち1人1人が違う人生を歩んでいて、違う体を有しているからです。
けれども・・少しでも近づいて想像する事はできるのではないかなぁと私は思っています。
また、世の中に発言をする時は、上記の「深慮主義」のように、深く考えをめぐらせられる人にしか権利が許されていないのでしょうか。もちろん、伊是名さんが深く考えていないということではありません。
「口調が」とか「言い方が」とか「やり方が」とか、そのような部分が気になっている方に関して、私はこの「深慮主義」の文章が思い浮かびました。
「私の気に入るように言ってもらわないと困る」というあなたはどのような立場なのでしょうか・・と思います。友達や家族の関係等だったら健常者でも障害者でも関係なく伝えてもいいかと思います。けれども今回の事は公共の施設で起きた問題ですので、発言の仕方についての言及は少し違うのではないかと思うのです。
そして、あなたがもし今後「自分自身が障害者になった時」に同じような扱いをされたら・・どう思うのかということを、やはり想像してほしいなぁとも思いました。
3.障害者=バリアフリーにしてほしいではない経験
話は変わって、私が思い違いをしていた、というお話をします。
以前担当していたある利用者様の事です。
この方は車椅子には人の手助けによって移り、車椅子を移動するのも人の手助けが必要な状態でした。
自宅が駅のすぐ近くにありました。駅は無人駅でローカルな単線の駅です。(昼間は1両で走っているようなやつです。)
私は訪問リハビリテーションでお家に伺い、晴れた日はご本人も望まれている車椅子の散歩を、自宅周辺で行っていました。
散歩中は駅の近くをまわるので、自然と駅の話題になりました。
私は駅の入り口が急な勾配であること。入り口は車止めの逆U字型のポールのような物でふさがれていることが大変気になりました。
『これだと車椅子が入れない。車椅子の人は電車に乗れないなぁ。』と思った私は、その利用者様にその事を話してみました。
すると、その方は「これでいいんだよ。」とおっしゃいました。
私は「え?」と一瞬耳を疑いました。
なぜなら私は、障害者の方は誰でも駅のバリアフリー化を望んでいるのではないかという固定観念があったからです。
その方は続けて話しました。
「前はここにポールがなかったの。でも夜になると暴走族や若い人たちがここに集まっちゃうことがあってうるさかったんだ。俺はいい迷惑だったよ。夜中にトイレかして下さいとかって言われるしね。だから、ポールがある今の方がいいんだよ。」
私はこの方の発言を聞いて、自分が勝手に相手の立場や考えを決めつけていることに気づきました。
「だったら暴走族の問題を解決して、車椅子ユーザーも利用できるようにするべきだ!」といった事は重要なのですが、今回はその話題について取り上げたい訳ではありません。私の中で、
ある1つの特徴がある方に対して勝手な決めつけがあった
ということが問題なのです。
ここから学んだ事は、障害を有している方たちもそうでない方も共に住みやすい地域を作っていくことは、安易にバリアフリーにするとか、ユニバーサルデザインにするとか、それだけで終わる問題ではないということ。
地域の1人1人が望んでいるものの多様性を幅広くとらえること。
そんなことをこの経験を通じて感じました。
4.少しずつやっていくしかない
バリアを感じる場面は、伊是名さんだけでなく、たくさんの方たちが不自由さを日常で感じています。
私は今のところ健康的な体を有しているので、その体験を自分がする事はありません。
けれども、リハビリテーション専門職という仕事上の中で共に悩んだ経験はたくさんあります。
関わらせて頂いている方達が、スーパー、コンビニ、100円ショップ、お寺、宿泊施設、飛行機、ゴルフ場など、行きたい場所に行くためにどのように乗り越えていくのかを一緒に悩みました。
そして、案外現地に行きますと、例え段差などのバリアがあったとしても、乗り越えられる事が多い印象を受けました。
なぜかというと、従業員の方や経営者の方、その場にいる人たちが、手を貸して協力して下さったからです。
中には冷たいような対応をされたり、現場での判断がつかないといったことも当然ありました。それでも、あたたかい眼差しで手をかしたり、アイディアを出してくれる方が圧倒的に多い。
そして、1度お店側が車椅子の方などを受け入れてくださると、次にまた違う車椅子の方がいらした時にも、従業員の方も対応に慣れてきて自信を持って対応してくれているようなのです。
車椅子ユーザーもお店側も新しいチャレンジや経験を通じてともに成長していることを私は感じました。
こうして、1つ1つ利用できる場所を増やす事や利用できる場所の共有化を図っていくことが、私に唯一できる事なのかなぁとここ数年は心に決めて取り組んでいるつもりです。
取り組んだ内容についてや、感じた事は機会があったら書くかもしれません。
何事も地道に積み重ねるしかないのかなと思います。そして画期的な取り組みをされている方たちや、最先端の福祉用具の情報も取り入れながら、着実に前にすすむことができたら良いなぁと願っています。
本日の記事はひとまず、ここまでにします。読んで下さった方たち、大変ありがとうございました。
※記事のご紹介をさせて頂いた、yuki otaさん。あらためましてありがとうございました。また、この記事はあっちんさんに捧げたいと思います。いつの日か戻ってきて読んで下さることを願っています。