この世でいちばん難しいのは、いちばん簡単なことだったりするのかもしれない
先日「くらしずく」というイベントに参加してきた。
このイベントに参加するのは今年で3回目となる。
(1回目と2回目の記事はこちら)
毎回参加していた我が子たちは、今年は自宅で留守番したいということだったので、私たち夫婦のみでの参加となった。
夫は天候を気にしており「悪くなるようだったら都内の『西日暮里BOOK APARTMENT』に行きたいよね」と話していたが、なんとかお天気が持ちそうな予感がしたし、このイベントは年に一度の開催なので、くらしずくの会場へと車を走らせた。
会場は混み合っていたが、昨年のように遠くの駐車場に案内されず近場ですんだ。「風が強いし、天気予報が微妙だったからかなぁ」と夫は話しながらチケットを購入して、私たちは会場をまわった。
2人で見たり、気づいたら離れて、1人で見入っていたり.....。自然とくっついたりはなれたりして、その距離感が自然で心地よかったように思う。子供がいなくてさみしさもあるが、2人もなかなか気兼ねなくていいものなのかもしれないな、とふと先の人生のことも思った。
どのお店も手作りの作品を展示している。
それは、革だったり、布だったり、ガラスだったり、鉄だったり、陶器だったり、扱っている素材もそれぞれ。また雑貨だけではなく、体を洗うもの、いい匂いがするもの、食べるもの、飲むもの、読むもの。あらゆるものが私たちを出迎える。
青北風が吹き抜けて葉を揺らす。
日の光が、木々の間から差し込む。
うろこ雲が季節の訪れを感じさせた。
空気が澄んでいる。
自然の中に、自然のものが置いてある。
そして製作者たちは、リラックスしながらも、どこかぴりりと少しばかり緊張感があって、自分が生み出したものたちを、丁寧に手入れをしたり、位置替えをしたり、愛おしく眺めたりしている。
手作りのものを作って、人に渡す。
渡されるのは、ものであって、もの以上である。
そこが手作りのものと
大量生産のものの
違いだと思う。
大切に作られたものを、受け取ること。それは作り手の魂の一部をもらっているような感覚になる。
受け取った側は、日々のくらしの中で、そばに置いておくだけで、それが目に入った時に、日々のこころばえをあたらしくされたように感じる。
それはそこに心がおいてあるからだと思う。
お昼ご飯を頂き
秋風が寒いので体があたたまるホットレモネードでひといきついて
会場をふたたびまわった。
先日書いたフラダンスのイベントに誘ってくれた友人が、今年もはちみつを扱う店で出展していたので、挨拶を交わした。
私がクマのハンコを購入して、夫をさがすと、夫も何かを購入したようであった。
「え?自分で買ったの?」
「そうだよ、これ」
とあざやかな赤い色の革のキーホルダーに自分のフェアレディZの車のキーをつけて見せてくれた。
私は驚いて「買えるようになったんだね」と話した。参加1回目の記事にも書いたのだが、夫はなかなか自分の好きなものを選んで買えない人なのだ。とても慎重に手に入れるものを考えている。
簡単なようで簡単ではない。
彼にとっては簡単ではないのだ。
誰かにとっては簡単でも
誰かにとっては簡単ではないことがたくさんある。
それは当たり前のようなことでも
本当にそれができているように錯覚しているだけで
本当にできない、難しいことは
案外、シンプルで簡単な営みであったりするのかもしれない。
詩人の長田弘さんの文章が最近気になっていて、そんなことを思い浮かべた。
この「散歩」は
「人生」に置き換えて
読んでみてもおもしろいかなと思う。
ついつい目的にばかりに目がいってしまって、頭がそのことでいっぱいになってしまうことは私だってある。
そうではなくて、道中を楽しめる心を。
そのために、未知なる道を楽しくお供してもらうものと巡り会えたら楽しいし、心強い。
夫が出会えたキーホルダーが、夫にとってそのような存在になればいいと、私は思うばかりなのである。