表現の暴力性
昨日の私が書いた記事。
障害者に対して「声にならない声を聞く事が大事」といった文章を書いた。
今日ヤンデル先生のツイートを読んで、ハッとした。
soarというメディアを尊敬していて、はっきり表明もしているんだけど、ほかのメディアに比べて優れているなあと思える点がまたひとつ増えた。多くのメディアは「声なき者の代弁者」を語るのだが、そこに潜む暴力性というか、他者に代わって言語化し発信することの功罪に、soarはかなり繊細だと思う
— 病理医ヤンデル (@Dr_yandel) October 26, 2020
「声なき者の代弁者の暴力性」
自分自身はどうだろうか。
声を聞く時におそらく自分の仮説がある。「〇〇はこう思っているのではないか」
そして、相手が仮説とまったく違うことを訴えていても、自分のフィルターを通して聞いてしまうことで、かなり情報が歪んでしまうのではないか。
むしろ歪んでいることが当然で、果たしてどれくらいの人がそのことに気づく事ができるのだろうか?
代弁者に傷ついている当事者はどれくらいいるのだろうか。
話はちょっと変わるけど、以前【noteフェス】で幡野さんと浅生鴨さんが出演していて鴨さんが
「他人に向けて発信すること自体が暴力だと思っている」
というような発言をしていた気がする。
聞いていてすごく「そうだよなあ」と思った。
何か表現をすることが見知らぬ誰かを傷つけているかもしれないし、そもそも生きているだけで誰かや何かを傷つけている。
だから、そんな存在やそんな人間やそんな私は「いなくなってしまった方がいい」とは思わないけど、自分の存在が暴力性を秘めていることに自覚的になることも時には必要なのかもしれない。
人間が社会性をもって関わりの中で生きていくだけで、傷つきは当たり前におこっている。
傷つきを癒せるのも関わりであることを忘れてはいけない。
誰かの発信や表現が誰かの生きていく希望になることで、多くの救われる命もきっとある。
私はnoteの記事で得た様々な人々の情報や、生き方や、考え方や、思いなどに日々助けられている。
これからも関わりを続けていけたら良いと願っている。
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