缶蹴りとルール
缶蹴りが得意だった。
学校の校庭で
適当に転がっていた缶を誰かがひろってきて
みんなで缶蹴りに興じた。
今思えばあの短い休み時間の中で
私たちはよくあれほど遊ぶことができたものだと
つくづく感心する。
その日も私は缶蹴りをしていて、うまく鬼の目を盗んで缶を蹴ることができた。
カーンと小気味良い音がする。
「なんだよー」
鬼の子は悔しそうに近づいてきた。
そして面とむかって私にこう言い放った。
「でもな、お前より俺のほうがずっと足が速いんだからな」
私は足が遅かった。長距離走も短距離走も苦手だ。「そもそもさ、走るフォームがおかしいよ」と成人してから夫に指摘されたことがあるくらい、私はどうやら走りにむいていないらしい。学校では私がどじでのろまなカメであることはクラスメイト...いや、学年中の同級生には周知の事実であった。
まあそうだよね、と思った。
それは私も充分わかってるんだ。
でもね、そういうことじゃないんだよ、とも、同時に思った。
缶蹴りは缶を蹴ったら勝ちだ。
私は確かに足の速いあなたに比べたら、随分とどんくさくてのろまで、信じられないような不格好な走り方をしているかもしれない。
けれども缶蹴りは足が速いだけでは勝てない。
確かに足が速いことはこの「缶蹴り」というゲームにおいては非常に有利であるのだと思う。けれども缶蹴りという遊びにはそれ以外の要素もたくさん含まれている。
見つかりにくい、意外性のある場所に身を隠す事。
缶蹴りをしていない児童たちに鬼が注意を向けている隙を見過ごさない事。
他の子が見つかって名前が呼ばれそうになっている不意の瞬間をつくこと。
あと、ぶっちゃけ運。
それらの要素がかみあって勝利をつかむのだ。
だから
「お前より俺のほうがずっと足が速いんだからな」
と言われたところで、私は
「だから何?」
とよくわからないマウントのような、彼の自分と私の優劣を再認識させるようなことばに対して、内心空虚な気持ちになった。
どんな集団にも、何事にもルールがあって、目的としているものを達成させるための要素がいくつかある。
それは明文化されているものやら、暗黙のルールのような見えにくいものやら、様々である。
家庭でも学校でも部活動でも、趣味のお稽古だって、その場においてうまくその集団で物事を進めていくためには、守ってもらいたいことや、やらなければならないことがたくさんあるのだ。
仕事においてもそうだと思っている。
会社の中でたとえどんなに、秀でたプレゼン資料を作る才能があっても、圧倒的な指導力があっても、知性の高い創造性の豊かなアイディアを生み出したとしても、それだけでは成り立たない。
どんなに自分が走りが早くて
圧倒的にみんなと差がついてしまっていて
まわりがぐずでのろまで努力不足などうしようもない連中だと思っていても
仕事と言うのはそれだけではない。
一人で全部できると思っている多くの出来事は、結局会社という組織に属している限りは、会社の恩恵を多大に受けているし、他の働きをしている社員の力によっても支えられている。
自分が価値をおいていない一見無駄だと思えるような作業でも、それがその場では優先されるべき事項であったり、課題に向かっていく中で必要な要素であるならば、やはりそれはある程度は守らなければ、管理している側の信頼を得ることは難しい、と私は個人的に思っている。
それがどうしても守れないならば
その集団をはなれるか
自分が管理職になってルールを変えるか
もしくは
できないことを開示して
まわりの手助けを得ていくかだ。
中には、役職や立場に関わらず、建設的な対話ができるような経営者や上司もめずらしく存在しているとは思うので、自身が無駄であると思われることは効率よく働くためにも提起していけばいいのだと思う。
一方で、どんな立場の人でも差別することなく、接してくれる神のような人間でも、やはり感情を持っているのだということを私は忘れない。
悲しいことに人間は感情の生き物なのだ。
自分の力だけで
この世の中がまわっていると
思わない人間は
自然と謙虚に
つつましく
なるのだと思う。
謙虚に
でも気持ちはしたたかでいい。
ちなみにドッジボールも私は得意だった。
得意というか、球を受けとめるのは下手なのだが、かわすことが上手だったので、最後の1人になることが多かった。
そして皆は言う。
「なんであいつが残ってるんだ」
足が速くもない
体も小さくはない
(ボールの的としてはいい具合の大きさである)
でもなぜかコートに残っている私を見て
首をかしげた人は
あきれたように
この現実を目の当たりにしている。
不思議な世の中であるなぁと思う。