くま読書 居るのはつらいよ
この本は、私の根幹となっている本である。私の中での大きい柱となっている本のうちの1つだ。
最近、なぜか思い出したくなったので、パラパラと読んでいる。
1.沖縄の物語
好きなポイントはたくさんある。1つは私の好きな沖縄が出てくる。
沖縄の精神科のデイケアが舞台であること。
この本は物語形式で話が進んでいく。
だから「学術書」のジャンルではあるのだが、出てくる登場人物や話自体がおもしろく、先の展開が気になるので、するすると思わず読んでしまう。そういう不思議な魅力を携えている。
主人公の東畑さんこと「ハカセ」は心理士さんで、「力動的心理療法」と言われる専門性の高いセラピーが提供できることに価値をおいている人だった。
しかし、心理士さんのお仕事と言うのは案外この「セラピー」というのが求められる場面は少なく「ケア」というものが求められていた。東畑さんはどうしても病院で「セラピー」を提供したいがために、沖縄のクリニックの求人に惹かれてわざわざ京都から沖縄へ引っ越して、新生活を始める。
意気込んでやってきたハカセはデイケアで面喰ってしまうことがたくさんあった。
沖縄の「なんくるないさ」という雰囲気にのまれながら、トンちゃんは様々な出来事をデイケアで体験していく。この沖縄独特の場所(南風原ジャスコとか浜比嘉島の海岸とか)、沖縄独特のことば(ハイサイ!とか)出てくるキャラクターたちが読んでいてとても心地よく、一冊を通して、独特の空気感が保たれている。そんなところが好きなポイントの1つだ。
2.ケアとセラピーの違い
ここからが本題。
ケアとセラピーの違いは何?
私もこの本を読むまではっきりとはわかっていなかった。
ケアとは傷つけないことである。
セラピーとは傷つきに向き合うことである。
以下本書より抜粋。
読んだ時に私は「ドレッシング」が浮かんだ。
ケアとセラピーは日によって場面によって混ざっている成分が違う。ある時はオリーブオイルが3割の時もあれば5割の時もあるかもしれない。塩が3gの時も2gの時もある。
そしてお互いが混ざり合っているけど、完全には混ざり合っていない感じ。
自分が相手によってケアとセラピーの配分を変えていることを感じるし、同じ相手でも配分が変わる。自分自身にも対しても同様だ。
私の仕事に対する感覚は、専門学校時代の学校教育の賜物?もあって卒業後は思考が明らかに「セラピー」寄りであった。リハビリテーションとは身体機能の回復を目指すものであると勘違いしていた。(間違いではないのだが、今は身体機能の回復も極一部の手段にしか過ぎないと思っている。)
リハビリテーションでは「今困っていることは何ですか?」「やりたいことをやってみましょう」と初回面接時などの患者さんにまず質問することが多い。そしてアセスメントをして問題点を明確にし、患者さんと一緒に改善を図り、生活の状態を数値化して「良くなった」という判断をする・・。
ところが、そんなにすんなりといかないこともある。そうは言っても・・・がたくさんある。問題点を見つめることは傷口に触れること。本人がわかっていてもできないこと、目をそらしたいことにぐりぐりと触れている。
今、思えば若い頃の私には、ケアが圧倒的に足りなかったと思う。それは相手に対しても自分に対してもだ。まず、傷つきの前に依存できる環境を作ること。それが状況を変えていくための第一歩なのだと思った。何となく、手探りで感じていたことを、目の前で種明かしするみたいにこの本は魅せてくれた。と同時にガツンと頭をハンマーで殴られたくらいの衝撃があった。
このケアとセラピーは様々な場面で両方存在していると東畑さんは書かれている。カウンセリングもそうだし、医療にも、学校現場にも、職場の新人教育にも、家庭にも、友人関係も、子育てにも当てはまる。
このあと、「ケア」は効率性とか生産性と相性が悪い物であると続いていく。そして著者は、「ケア」の価値を説明したり擁護するためには、ケアの場面が語られ続けること、語られたことばがケアを擁護できるし、居場所を確保できるのではないかという希望を持った内容で物語を締めくくっていく。
傷つきは誰にもあると思う。
でもその傷つきを100%自分で背負っていける人はいないとも思う。
時には自分でどうにかできそうな時もあるし、どうにもならない事もある。
どうにもならない時、苦しくてしょうがない時は、少しその問題から離れてもいいのかもしれない。
そして、誰かや何か(自然とか遊びとか趣味とか運動とかなんでもいい)にケアをしてもらうことが必要なのかな・・と思う。
しっかりとケアが作用すると、人はまた「いる」ことが可能になる。
そうやってシーソーみたいにバランスを取りながら、私も相手も少しずつ歩みを進めて生きていくことができたら・・・なんてことを、この本を読んでから、心の中でまるで理想郷みたいに私は描き続けているのだ。