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「好き」に関する雑文
好きなもの。
好きなこと。
好きというのは心地よさが大前提としてあるのではないかと思う。快か、不快か、でいったら誰にとっても快体験であるのだと思われる。
好きなものを好きな理由というのは、限りなく細分化される。
好きなものと過ごす時間は気持ちが落ち着いたり、一方で力がみなぎるようなエネルギッシュさが湧き出てくることもある。心が躍って楽しく過ごせたりする。時間を忘れて熱中したりする。それを楽しみにすることで、嫌なことも乗り越えられたりする。好きなことを続けて自己実現を叶えたりなりたい自分になれる。「こんなものを好きな自分が好き」というかっこいい自分、在りたい自分を確認する一つの手段にもなる。達成感を感じる。自分の役割のように感じたり、時には自分に与えられた使命として大切なものになることもある。好きなことをして同じものを好きな人との繋がりを求めることもできる。気持ちを共有して高め合ったり共感することであたたかい気持ちになれたりする。あるいはお互い好きなことに励みあうこともできる。好きだからこそ、習慣的な動作となり、意識しなくとも体にしみついてしまうものもある。好きなことを極めたいという人生において命題のようになったり生きる目標となったりもする。
一つのものを好きな理由も様々である。
たとえば料理の場合
自分が食べたいもの、おいしいものが食べたいから作る人もいる。家族や親しい人に食べさせたい人もいる。プロとして生業として料理人の道を選択し自己実現をはかる人もいる。料理のレシピを考えるのが好きな人もいる。創作料理などのアイディアを出すのが楽しい人もいるし、盛り付けにこだわって表現の場として好きな人もいる。映えを意識し魅せるのが好きな人もいる。単純に作業として好きな人もいる。
本当に人それぞれである。
人それぞれだからこそ、同じものが好きな人がいたとしても、同じポイントで好きとは限らないのだ。
あるいは違うものが好きだとしても、それぞれ同じようなポイントが好きな場合もある。
人間は、好きなことやものに携わり続けたくとも、何らかの理由で継続できない時がある。
そんな時に、私は職業柄、その人の「好き」がなぜ継続できなくなってしまったのかを考える機会が多い。
いわゆる作業分析である。
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人が何か行動する時は、相互にこれらが絡まって常に関わり合っている。
意志
習慣化
遂行能力
環境
の4つのアセスメントを私たち作業療法士は必要としている。
意志は
①能力の自己認識(個人的原因帰属)
②興味関心
③価値
で構成される。
自分にどれくらいできると思っているのか、そこに関心が高いのか、自分にとって価値のあるものなのか。
習慣化は
①習慣
②役割
で構成される。
習慣的に行われているのか、その人にとってどのような役割を感じているのか。
遂行能力は
①運動技能
②処理技能
③コミュニケーション技能と交流技能
で構成される。
身体が動くのか、適切な判断ができるのか、周りの人と交流しながらすすめられるのか。
環境は
①物理的環境
②社会的環境
で構成される。
それを行うだけの道具などがそろっているのか、行うための人員や社会のしくみが整っているのか。
お金というのは、この中で言うと
環境
に当たる部分である。
すなわち、お金がないと自分の「好き」が達成されない可能性は現実としてある。
アセスメントをして、好きなことを続けられない原因の一つに「お金」が上がっている場合、ざっくり言うと今後の戦略として2択の選択肢が浮上する。
①お金をかせいで必要な物を買う。
②お金がなくとも「好き」を達成させる手立てを考える。
これらを対象者と一緒に考えていく。
ここだけ書くと非常にシンプルであるが、物事はたくさんの要素が絡み合っていて、紐解いて先に進むのは容易なことではない。
特に②は、その人の「好き」を細かに評価し、今の「好き」のカタチをもう少し変えられないかということを検討していかなければならない。
そこで考えるべきポイントは「好き」のデメリットである。
人は好きなものに対して、誰でも執着が生じてくる。自分の理想の「好き像」があり、好きを冒涜するものを許せなくなってしまうのだ。
自分の好きな「あれ」は、本来はこのようなカタチが望ましいのだ!と強い気持ちを抱いていると、そこに添わない人たちや添えない自分に対しての寛容さがなくなってくる。
あるいは好きな「あれ」の好きなポイントが違うと、意見が衝突することもある。
「好き」へのこだわりやカタチを変えることは簡単なことではない。自分をやわらかにしなやかに変化させることを求められるのだ。
それでも、自分を変化させてでも続けたいものであるのなら、やはりそれは「好き」なのだろうと思う。
仮に自分を変化させられないのであれば、好きなもののポイントをアセスメントした上で、違う対象物に対してそのポイントを持って新たな「好き」を発見できるのかなどを、考えていきたいと思っている。
えーと....長文失礼いたしました。
(特におひたちさん、なんだかごめんね)
(何気なく日常の中にある問いをたてることは、私も好きです)
(考えることは楽しいです。私の中では考えることは強くなることとイコールではないんですよね。どんどんやわらかに自分が弱くなるものだと思っています。どなたかのコメント欄で書かせてもらいましたが「対話は自分の弱さと向き合う」ことでもあると思っています。しかし、その揺れや不安定さは決して悪いことではないのです。他者とやさしく混ざり合うものでありたい。)
最後に若松さんの文章を置いておきます。
ここに書かれている好きなものの対象は人なのですが、ものにも通じる部分もあるのかなと思いました。
好きな相手に私たちは何かをしたいと常に思う。嫌いな相手にはそんなことは絶対にしないが、頼まれてもいないのにできることはないかと懸命に探したりもする。
相手が期待していない役立つことをして、感謝されたい。そんな気持ちもあるかもしれないが、それだけでもない。ただ、感謝以前にそうすることに満足を覚える。何かをすることで相手への思いを確かめていく。恋愛をしていると、そんな関係と日々が心地よく感じられることがある。
だが、人生には好き嫌いと少し性質の異なる地平が存在する。愛する者に何かをするのではなく、しないでいる、という態度を貫かなくてはならないこともある。
沈黙は、その人の意思をあらわしている。
語ること、行動することが全てではないことを、私は忘れたくないなと思うし、ことばにならない叫びや想いをどうにか表現したい夜もある。
以上、駄文にお付き合い頂き、まことにありがとうございました。
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