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『猿の惑星』から猿とヒトの共存は可能なのかを考える

 どうも、クマゴロウです。

 先日、といってもだいぶ前なんですが『猿の惑星 キングダム』を見まして、それについて書きます。

猿の惑星のリブートシリーズ4作目

原作は1963年に発表された小説『猿の惑星』。1968年に公開された映画が有名ですが、その新シリーズの4作目。創世記(ジェネシス)、新世紀(ライジング)、聖戦記(グレートウォー)ときて、今回のキングダムです。一応、続き物なので前作の3つを見ているとより楽しめるかもしれません。見てなくても、シーザー(っていう猿)の存在が「あー、そういうお猿がいたんだね」となるくらいで、基本大丈夫です。
 そもそも、猿の惑星を知らぬ、という人は素直にその世界観で楽しむのが良いと思います。
 シリーズ全体を通したストーリーラインは「人間の実験によって知能を持った猿と人間が争う。→人間が作ったウィルスは猿の知能を上げると同時に、人間の知能を下げる働きがあった。→猿が地球の支配者になっていく」になります。
 というわけで、まだ見ていない人はこの先、結構ネタバレしながら書くかもしれないので、ブラウザバックをお願いします。




新作「キングダム」

※ここからは映画を見た人向けです。

 みなさん、面白かったですか?
 レビューのサイトを見ると賛否両論ある感じがします。
 グレートウォーの300年後なのにあんなに綺麗な技術が残ってるのか、王と言いながら結局パワープレイの猿じゃないか、ご都合主義すぎる、というのがツッコミどころとして多いですね。確かに。300年放置された精密機械は大体動かないんじゃないかと思ったりしますし、300年間、他の街とコミュニケーション取ろうとしている人間も、もっと他に何かあるだろうよと思うんですが、あれはノアとプロキシマスシーザーの地域のみを描いていると考えると、他の場所ではもっと人間が覇権を握っている地域があったり、違う猿の一族が王国を築いていたりするんじゃないかと想像もできます。例えば、キングダムは古墳時代の日本を描いているだけで、同時代のヨーロッパはローマ帝国があったり、中国では三国志の時代だったり、みたいに、それぞれの地域で状況が大きく違っている、と考えると、300年間、人間文明が何とか耐えきった地域があっても良いかな、と思ったりもします。
 なので、メイ(ノヴァ)がわりと小奇麗な恰好をしていても、大和朝廷にローマ人が来た的なところで良しとしましょう。

 ちなみにクマゴロウの映画の見方は、映画に関わらずなんですが、それをどう解釈したか、何を思ったか、に重きを置いていたりします。ビシっとストーリー全体の辻褄とか、構成とか、そういうのを楽しむのもありますが、どちらかと言えば、どう思った?ってやつです。なので、ダム爆破後の水って基地の1階部分までしか浸水しないんじゃないか?とかは、映画的なご都合主義ってことで気にしなかったりします。ケレン味というか、カッコイイっていうのが大事で、それ言ってたらレニー・ハーリンの映画、全部見られなくなっちゃう。
 で、どう思ったか、です。

猿とヒトの共存は可能なのか

 というわけで、本題です。
 シリーズ全体を通して言えるのですが、以下に尽きるかなと思っています。

 我々はある程度の知性を持った他の種と共存できるのか。

 「ある程度知性=人間と同程度」とした場合に、これは難しい問題だよなあ、と思っているわけです。
 共存できないということは争いが起きるわけで、なぜ争いが起きるのかを考えてみます。

 なぜ争うのか?
 敵がいるから争いが起きる。
 まあ、それはそうでしょう。
 敵がいなければ争いは起きないわけで、人間にとっての敵がそこにいるから争いが起きると考えられます。

 じゃあ、そもそも敵ってなんだ?
 みんな仲良く、というのではダメでしょうか。「猿とだって仲良くできるはず」という人がいる一方で、「猿は人間とは違う!人間の世界に住むなんて許せない!」という人もいるかもしれません。仲良くしたい人もいれば、仲良くしたくない人もいます。まず、こういった個人的な感情の敵がいるようです。
 それとは別に、猿が自分たちの共同体をつくろうとすると、それまで人間が持っていた土地や資源の一部を譲り渡す必要が出てきます。猿からすると「そこが人間の土地だなんて誰が決めた」という感じかもしれません。猿だって自分の国が欲しい!
 これに関しては、土地が人間のものという根拠がないんですよね。ずっと前から住んでたから俺のもの、というのは理由にならないし、偉い王様とかが「そこはお前の土地だ」と言ったというのもやっぱり理由にならない。たまたまそこに住んでいた動物(人間を含め)を追い出して占有しているだけで、その理屈で言えば知能を持った猿が奪い返しにきても仕方がなくなってしまいます。
 というわけで、対立の構造が生まれてしまいます。それまでその土地を持っていた国からすると、自分の取り分が減ってしまうので、これは国にとっての敵ということになるでしょう。
 どうやらこの世界には「私の敵」「公の敵」が存在するようです。

敵と友から共存を考えてみる

 敵がいるなら、友もいる。
 敵というのが対立関係にあるのだとすると、協調関係にある友もいるはずです。友とは何か、というのは一旦置いといて、我々の周りには

 公の敵
 公の友
 私の敵
 私の友

の4つが存在しています。
 この中で、人間以外の動物にはそもそも敵と友は存在していないと考えられます。トムソンガゼルにとってライオンは捕食者ですが、敵ではありません。ライオンにしても、トムソンガゼルを食べるのも、オグロヌーを食べるもの変わりません。いやもしかしたら味に違いがあって「ヌーうまいわー」って思ってるかもしれませんが、たまたま捕食できる生き物がそこにいるだけで、ガゼルにもヌーにも敵意を持っているわけではありません。
 同様に友もいません。ガゼルにしてみたら種の存続を考えて群れをつくっているのであって、仲が良いから一緒にいるわけでもありません。お互いに利益があるだけなので、なので弱ったガゼルがライオンに食べられるのは仕方が無いことです。
 ということで、友と敵がいるのは人間か、それに類する生き物です。

 次に、国家があるなら敵と友が存在する、という観点で考えてみます。
 我が国の鉱山で金が発掘できるとした場合に、隣のA国はそれを売ってくださいとやってきて、B国はそれをよこせとやってくる。A国は友でB国は敵になる。B国が敵になると、B国と仲良くしているC国も敵よりになるが、もしかしたら我が国とは魚の売買で仲良くしている友かもしれない。といったように、我が国という境界がある以上、その向こうにあるのは友か敵の国になってしまいます。

 いやいや、すべての国が友好的なら敵は存在しないのでは?
 確かにそれが人類が望む永遠平和の設立かもしれません。しかし、そのシステムを築くには、すべての人類が、他国の方が裕福であり、不平等な条件の貿易をしているのを受け入れてもなお、すべての国と仲良くできるという成熟した国民が必要になります。そのシステムに参加できない国があるなら、私たちの平和国家連合にはいれません、となると、結局そこから漏れた国は敵となります。
 なので、やはりすべての国が友になるのは難しいかもしれません。

 では、一つの国にしてしまってはどうだろうか?
 すべての国境をなくし、地球国家を作ってみましょう。すべての人が、自分の言葉や文化、外見、ルーツといったもの以外の何かに共通の自己意識を持てるとします。例えば人類であるといったものを共通の自己意識とすると、それを国家とするには、相当の歴史が必要かもしれません。
 同じ場所に住んで、同じ経済活動をするだけではなく、同じ歴史を共有して一つの社会をつくる集団という自己意識が国家とすると、一旦、すべての人類が、地球という星に住んでいる私たちという自己意識を持つに至るまではひとつの国家にならず、連合国家のような形になって、結局それぞれに友と敵が存在する形になる気がします。

 ちなみに猿たちは何と言っていたかというと、シーザーはライジングの際に「エイプは仲間を殺さない」と言っていました。
 仲間を殺さない、というのは猿の中には境界が存在していないということでしたが、その後「コバはもはやエイプではない」という言葉と共に、猿の一員であったコバを殺してしまいます。
 もはやエイプではない。これは猿の中に境界が出来て、敵と友に分かれてしまったことが伺えます。

 友と敵がある
 =複数の国家が存在する
 =社会が存在する
 =社会的な動物である

 シーザーがコバを殺した時点で、猿たちは動物的な群れから社会的な動物(人間と同じ立場)になっていったのではないかと考えられます。

 ということで、2つ以上の社会的な動物が存在し、それぞれのルーツが異なる以上、もし人間が世界国家を作ったとしても、公的には猿と人間は敵になるしかない気がします。
 ということで、そもそもの前提を覆していきたいと思います。


争いながらも共存できないか

 そうなんです。争ってもいいじゃない。争いながらも共存する道を探してみましょう。

 「公の敵」としての猿と人類の争いは無くなりません。むしろ、無くならないことが人間であり、知能を持った猿の証明であると思います。では、「公の敵」であるが「私の敵」ではなない、という道はあるのでしょうか。

 新井素子さんの『グリーンレクイエム』という小説があります。
 『グリーンレクイエム』と、その続編の『緑幻想』という小説なんですが、主人公の嶋村信彦という大学生が恋をする三沢明日香という女性が出てきます。明日香の正体は、地球に墜落した宇宙船に乗っていた異星人で、地球環境に適応するために人間の形にしてもらっているという設定になっています。明日香とその兄弟たちの生態は地球の植物のようなもので、光合成をすることで生きていくことができ、地球の植物とも感応し影響を与えることができます。その正体がばれてしまい、植物学者の松崎に追われるという流れになっています。
 2作目『緑幻想』のラストで、明日香の姉・夢子が地球の植物に対して「人間に復讐をしよう」と持ち掛けます。人間たちは植物を利用し、搾取し、そして自分勝手に環境も破壊していると。ちなみに『緑幻想』は1990年に発表されており、この時代は環境問題がスタンダードになっています。
 しかし、植物の代表である縄文杉は夢子に「私たちは人間を愛している」と答えます。本来植物にとっては敵であるはずの人間をなぜ愛するのか、と疑問に思う夢子に対して縄文杉は「今ある世界しかないなら、敵も愛する」と説明します。
 
 この辺にヒントがあるのではないかと思ったりします。
 植物からしてみると、光合成をして酸素を作り出すことで、酸素が不必要な生物たちの未来を絶ってしまった。この世界は私たちが作ったのだから、そこに生まれてきたすべてのものは、私たちの子どもだと。
 とはいえ、これはもう愛が深すぎて人間には到達できないレベルかもしれません。
 ちなみに、中島みゆきさんが「愛だとか恋だとか難しく言わないで 私の子どもになりなさい」と歌っていましたが、究極の愛の形が「私の子ども」ということで、中島みゆきさんも植物クラスの母性を持っています。

人間の可能性を考える

 そして最後に、ネットの記事で久美沙織さんの「創世記」の12回から。

『竜の卵』を書いたロバート・L・フォワードさんに、久美沙織さんがした以下の質問と、ロバート・L・フォワードさんの答えです。

チーラと地球人ほど、ぜんぜんまったく違う種類のいきもので、みためはもちろん、いきてる時間さえあんなにあんなに違う同士でも、ほんとうに理解しあえると……ともだちになれると、本気で、思ってますか?

久美沙織『創世記』第12回

もちろん。ぼくら双方がインテリジェンスを持っている限り、必ず

久美沙織『創世記』第12回

 記事の中にも書いてあるのですが、以下の命題が生まれます。

双方がインテリジェンスを持っている ⇒ 理解しあえる

 この命題が真だとするとすると、この命題の対偶も必ず真になります。
 対偶は命題の逆の裏なので、

逆) 理解しあえる ⇒ 双方がインテリジェンスを持っている

裏) 理解しあえない ⇒ 双方がインテリジェンスをもっていない

 ということで、

対偶) 理解しあえない ⇒ 双方がインテリジェンスをもっていない

 これもまた、真になります。
 なんということでしょう。人類が、人類と同等の知性を持った別の種(猿など)と共存できるのか、については「私たちが知性を持っている限り、公の敵にはなるが、必ず相手のことを理解することができる」という結論になるしかないのです。そして、一つの土地をめぐって争う猿たちについては、私たちの子どもみたいなものだから、究極的にはすべて愛するのだ、と。

結論として

 猿の惑星シリーズを見てきて、最新作キングダムを見終わってから、ずっと考えていた「猿とヒトの共存」について、一応ひとつの結論がでました。
 なんというか、人間って戦争もするし、犯罪も犯すし、集団で悪いこともするし、世の中にはつらいニュースが溢れているのですが、それでも私たちが持つ知性は、私たちに、それらを乗り越えていかなければならないと訴えかけているのです。

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