お盆休みは映画館三昧
公開し忘れてて、去年書いた記事です、、
毎日暑い。
家の自分の部屋は2階にあり、夕方はとにかく西日が強すぎてクーラーが全然効かない。家にいてもただ時間も身体も溶けたように過ごしてしまうだけではもったいないから、お盆休みは数少ない友人と会う日、台風が直撃した日以外は映画館で過ごした。まさにオアシス。
スケジュール
10日 さらば、わが愛 覇王別姫
11日 ハズバンズ
インサイドルーウィンデイヴィス
12日 ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン
13日 クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男
パルプフィクション
16日 バービー
どの映画も内容が濃く、みるのに結構な体力が必要だった。笑。
この中でも特に印象に残っているのは「ハズバンズ」「ジャンヌディエルマン」「バービー」である。男性・女性の生き方を問うものとして何か共通性を感じたからである。
以下、めちゃくちゃネタバレあり。
「ハズバンズ」(1970) 監督:ジョン・カサヴェデス
なんでこの映画をみようと思ったのかよくわからない。けど、映画館に足を運んでいた。仲良し4人組の楽しい日々の写真がインサートされ、そのうちの1人の葬式シーンから始まる。今夜は飲み明かすぞ!と葬式後にたらふく酒を飲むも、満足せず、「家に帰りたくない」がためにイギリスに飛び立つ。。。
この映画が作られた時代背景を鑑みると、当然なのかもしれないけれども、ハズバンズ=男らしい、かっこいい、マッチョ、女よりも優れている、という考え方が前面に打ち出されていて、かなり嫌悪感を覚えた。
特にきつかったのは宴席の場で、一人一人歌を歌うシーン。誰もが似たり寄ったりで、うまくもなく下手でもない歌を披露するのだが、ある女性のみがハズバンズの餌食となってしまう。「お前の歌には感情がこもっていない」「もっと感情をこめろ」と3人はその女性に怒号を浴びせ、最後には「キスしろ」と。はあ?なんやそれ。とめっちゃ腹が立った。
現代社会においても宴会で気持ち悪いことをいう人はいるが、それよりも表現が直接的過ぎて、息苦しい。あんな宴会には死んでも参加したくない。
結局イギリスについて、それぞれ好みの女性をホテルに連れ込んで、一晩を明かそうとするが、家庭や仕事のことが気になり始める。「家に帰りたくない」からイギリスに来たのに、結局家に帰ってしまうのだ。それにも腹が立った。そんな意志であるなら、最初からイギリスに来るなよと。
映画は急に終わる。エンディングもなし。「ママー、パパが帰ってきたよー」という息子の声が聞こえて、終わり。当たり前のように帰る家があってよかったね(嘲笑)、と思った。
「ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン」
(1975) 監督:シャンタル・アケルマン
「ハズバンズ」がこの映画が作られた時代の男性に焦点を当てた作品なのに対して、この作品は女性に焦点を当てた話だった。
タイトルも含めて、とてもよくできている映画だと思ったし、みた人それぞれの考察も興味深かった。
ジャンヌ・ディエルマンのルーティンで話が進んでいく。ジャガイモに火をかける、見知らぬ男性が家に来る、しばらくした後その男性が帰る、別れ際にお金をもらう、そのお金をテーブルに置かれた壺に入れる、この間に最初に火にかけたジャガイモの調理が完了する。と、ここまでの流れでジャンヌ・ディエルマンは娼婦であるということがわかる。時間の無駄がないルーティン。夜になると学校から帰ってきた息子の世話のために、時間を費やす。
1日目が終わると、また同じように2日目がやってくる。ジャガイモを火にかけ始めたころに、見知らぬ男性がやってきて、事を終えるとジャガイモの調理が完了しているはずが、2日目はジャガイモを火にかけすぎてダメにしてしまう。私が印象的なショットだなと思ったのは、男から渡されたお金を壺に入れた後、いつもなら蓋をきっちり閉じるのに、この日は開けたままにしたところ。こんなに几帳面な人が蓋を閉じ忘れるなんて、何かあるに違いないとこの日から無駄のないルーティンに狂いが生じ始め、だんだんとジャンヌにも異変が生じてくるというのをセリフではなく、細かな動作で表現しているのがすごかった。
ルーティンが狂い始め、日々の生活の細かな「うまくいかない」イライラがつのってくる。その「うまくいかない」の表現も共感できるものばかりだった。服のボタンがどの店にも売っていないとか、朝作るコーヒーの味がいまいちであるとか、行きつけのカフェの自分のお決まり席が埋まっていたとか、些細なことなのだけれども、積りに積もると恐ろしい結果となる。確かによくある話だよな、と思ってしまった。いつも穏やかな人が積りに積もったストレスを発散したときは恐ろしいみたいな。
キッチンに立って肉料理を仕込むシーンも印象的だと思った。特にお肉をこねているシーン。無心に肉をこねる。こねる。キッチンに立つジャンヌは、家事をするのは女性仕事であるという当時の状況を象徴するかのようであった。自分のために費やしている時間がないようにも思われるほど、家で過ごしているシーンが長かった。
タイトルがジャンヌの家の住所である点も、興味深いなと思った。家に縛り付けられている女性であることも暗示しているような気がするし、娼婦であるが故、この家の住所は訪れる男性にとっても意味のある文字列である。ジャンヌ・ディエルマンを端的に表すために、住所をタイトルにしたのはよくできているなと思った。
「バービー」(2023) 監督:グレタ・ガーヴィグ
公開前からあまりよくない意味で話題になっていたとても残念に思われるくらい、とても元気づけられる映画だった。
昨日Netflixのドキュメンタリー「ボクらを作ったおもちゃたち」をみた。バービー人形が登場したのは1959年だから、先に述べた映画が撮影されたころと重なる部分もある。当時、女の子のためのおもちゃといえば「赤ちゃん人形」であった。お母さんごっこをするためのおもちゃしかなかった当時、「女性でもお母さん以外に何にでもなれる」ことを示すものとしてバービーが生まれたのだ。へ~そんなこと考えたこともなかったな、と思った。女に生まれたから、レンジャーごっこではなく人形遊びが普通であると思っていたし、女の子の遊び=人形遊びに特に何の違和感もなかった。でもこの歳になって改めてバービー人形の役割を聞かされると、なるほどな~と思った。そういう背景を示すものとして、冒頭の「2001年宇宙の旅」のオマージュは秀逸だと思った。あの映画ではモノリスに触れることで進化を遂げていったが、そのモノリスが今作ではバービーなのか。
女の子にお母さん以外の何にでもなれることを示すためのおもちゃであるから、バービーランドはバービーが主役でケンはその横にいるただのハンサムボーイであるというのにも何の疑問も持ってこなかったが、この映画で現実世界の裏返しだと表現されているのには、少しハッとしたし、新鮮だった。
バービーランドでのケンは現実世界での女性の立場と同じなのである。バービーのおまけで、アイデンティティがなく、バービーの視界の中に入って気づいてもらうことだけが生き甲斐なのだ。(職業はビーチってなんやねん笑)
バービーとケンが現実世界をみたことで、それぞれにショックを受ける。女性中心の世界に生きるバービーは男性中心の社会に驚きを隠せず、ケンは男性中心の世界に触れたことで自信を手にする。バービーランドと現実世界をリンクさせ、女性はこうあるべき・男性はこうあるべきというステレオタイプは意味をなさないというのを示すというのが面白かった。
この三作品をこの短期間でみたのは私にとっては良かったかもと思った。
ほぼ同時代の映画をみて男性がどう生きてきたのか、女性はどう生きるべきだとされていたのかというのを把握することができ、そのうえでバービーという現代を生きる私たちに向けてのメッセージを受け取ることができたからである。
バービーはフェミニズム映画だと議論されていることもあるが、本当にそうなのだろうか。あの映画は男女関係なく、自分の生きたいように生きていけばいいのだよ、ということを伝えたかったのではないかと私は考えた。
特にKen is me.ってケンが自分自身について気づき始めるシーンで感動した。バービーの隣にいる特にアイデンティティもないイケメンの彼は、僕は何者なんだと自問し始める。バービーランドでKendomを建国するためにバービーたち(女性)を従え、男性社会を築こうとするが、バービーたちに阻止された後のシーンである。
バービーに別に私の隣にいなくてもいいし、ボーイフレンドである必要もないから、ケンはケンの生きたいように生きればいいの、ということを知らされて初めて、Ken is me.であることに気付く。「ケンは僕なんだ」と。その描写でも「僕は男だけれども泣くんだ」って言っているシーンがあって、先述の二つの映画からは想像もつかないセリフだなと思った。