006 鈴木さん、いまボクは野菜を売っています
「ねぇ、今日ランチしない?」
鈴木さんから電話がかかってくると、ボクは予定があってもキャンセルして、飛んで行ったものだ。当時の自然食レストラン(オーガニックという言葉はまだ一般的ではなく、そう呼ばれていた気がする)はたいてい味がなく、水をたべているようで、まずかったけど、鈴木さんとランチデートできるなら耐えられた。
鈴木さんは小学生の娘が夏休みに入るのを待ちかねたように一緒に連れていき、ドイツの農家を訪ね歩き、有機栽培やエコな暮らしについて取材。日本の新聞や雑誌に寄稿するのを仕事にしていた。民泊なんて言葉がなかった時代に、自ら一軒一軒に電話して。
彼女の話すドイツの農家の暮らしは、僕には想像もできないものだったが、彼女はそれがこれから世界のめざす理想の暮らしだと思っているようだった。
「この国は本当に遅れているのよ。だいたい男性がそういうことに興味を持っていないものね」
彼女の柔らかな非難の矛先は、ボクにも向かっていた。柔らかな、いや嫋やかな、というべきか。彼女ほど、他人を非難することから遠い人を見たことがない。でも、彼女はバブルが崩壊して成長の行き先を見失っていたあの時代に、我々が向かうべき世界を見つけて、穏やかに、でも強い意志でもって、辛抱強く、我々だらしない男を教育しようとしていた。その第一号にボクを選んだのだとしたら、ちょっと選択を間違ったのかもしれないけれど。
一度、ボクは彼女を編集長に、有機や食料自給力、環境をテーマにした雑誌を作ろうと思い立った。真面目なことを面白く、をテーマに。自分はさして興味を持っていなかったのに、彼女の熱意にほだされたというか、彼女の問いに答えたいと思ったのかもしれない。
話は進みかけたに見えたが、あの金融不況がやってきて、企画は頓挫してしまった。ボクの落胆を横目に、彼女は或るNPOの日本代表を務め忙しい毎日を送りながら、時々、また「ランチできる?」と電話してくるのだった。
その彼女から、電話がかかってこなくなった。どうしたんだろうと思いながらも忙しさにかまけていたボクは、共通の友人から、彼女が癌で急死してしまい、明日が葬儀だと知らされた。癌が見つかってから、わずか3か月のことだったという。衰えていく自分を見られたくないと言って、誰にも会わなかったし、知らせなかったという。
葬儀の日、ボクは彼女の娘さんに初めて会った。この子が一緒にドイツに行っていた子かと、葬儀の間中、つい視線が彼女を追ってしまう。どこか似ているところはないかと、失われてしまった形見を探すみたいに。
「娘の学校から電話があってね、トイレから出てこないって言われて…。慌てて学校に行ったことがあるの。出てきてって頼んでも返事がないの。ああ、私はこの子のことなんて何も考えていなかった。自分のやりたいことばかりしてきたんだって思ったら泣けてきて、わんわん泣いていたら、いつの間にか娘が出てきてくれて、私の肩を抱いていたのよ」
そんな話をしてくれたことを急に思い出した。あの鈴木さんを抱きしめて慰められる子どもなんだから、きっと大丈夫だろう。そう思った。あの、嫋やかな鈴木さんの娘なんだから。
鈴木さん、あなたに伝えたいことがあるんだ。
ボクは今、野菜を売っています。農家じゃないけど、国産の有機など、美味しい食材を使うバルをやっていて、常連客がこの野菜美味しいから分けてほしいという声に応えて、一緒に発注するサービスを始めています。これなら、段ボールひと箱届いても食べきれないということはないし、二度配達でCO2をまき散らすってこともないと思うんだ。
この間なんか、コロナ騒動で売り先のなくなった伊豆の生わさびを仕入れて、買ってもらったんだよ。その前には、造り酒屋で保管できなくなった酒粕を20数キロも送ってもらって、常連客で送料を負担して分け合ってレシピ交換したんだよ。その延長で、酒粕カレーを作って日本酒の4合瓶とセットで買ってもらえないかというプロジェクトにも取り組んでいます。
コロナ騒動で注文どころか客足はさっぱりになっているけど、あなたに教えられたことを、今になって、ちょっとだけ始めています。
畑だって借りて、有機野菜を作っているんだよ。相変わらずグウタラで、どっちかっていうと、何もしない自然農法に近いけど。
あなたの娘はいくつになったんだろう。どんな仕事について、何を考えているんだろう。時々、そんなことを考えることがあります。世界はコロナ騒動で大騒ぎしているけど、温暖化や人口爆発で、確実に食糧難が近づいている気がするんだ。コロナなんかより、そっちのほうがずっと問題じゃないかと思っています。
あれから20数年。この星をなんとかしなきゃ、と活動している若者が少しずつ増えているように思う。この店に来る客の中にも、そういう若者がいるくらいだから。
ボクは悪い生徒だったけど、最近の有機野菜は美味しくなったんだよ。そんな話ができればよかったのに。今朝、畑で真夏の青空を見上げながら、そんなことを思いました。
その人は 近くて遠く 在るゆゑに われを歩ます 天の青さへ (小島ゆかり)
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