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映画「ファーストキス」感想――「大きな奇跡の物語」から「小さくかけがえのない日常」へ
浦和のTOHOシネマズで脚本・坂元裕二、監督・塚原あゆみ、主演・松たか子の映画『ファーストキス』を観てきた。久々に号泣した。タイムスリップ×ラブ×死という構造的にはあまりにありきたりとも言える枠組みで坂元裕二はたしかに新しい物語を編んだ。
セカイ系的な大きさから日常系的近さへの騙し絵的転調。まるで望遠鏡を逆から覗いて果てしなく大きな視野と遠近感で見ていた景色が、レンズから目を外した瞬間ぐっと近くに具体的事物として現れるような体験だった。
ある意味、「絶対にだまされる!」映画とも言える。
とにかく「ヤバい」映画だった。
靴下はその人の身につける最も汚い衣服の一つであり、かつサイズが合えば男女で共有できるものだ。カンナは自分の靴下をはき、自分もそれを許してしまうほど心を許し合っていたということ。離婚してもなお履いてしまうほど深く習慣化するほどの関係が少なくとも一時期あったということ。それに気づいた駈は「この人と一緒にいたい」と思った。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』的に車が走り、時空を行き来するという演出。あえて古典的なタイムスリップの方法を選んだのは、「時空を行き来して恋をする」なんてありきたりですよね、わかっていますよこちらも、というメッセージを伝えつつ、観客が慣れ親しんだタイムスリップもののお約束みたいなコメディを楽しんでもらうためかと考えられる。やはりベタは安心する。その分、「転」が生きる。
駈の「あなたと一緒にいる15年の方をやり直したい」という言葉からこの物語の様相は一気に変わり始めた。セカイ系から日常系へ、逆望遠鏡的に見ていた景色がぐんと2人の日々に再度振り向き、そこからしばらく号泣だった。
変更前は、駈はプロポーズの際、柿ピーのうちピーナツの方のみを食べていた。「生物は違いがあることで生存確率を高めてきた。君と僕とは大きく違う。だから一緒にいた方がいい」というのがプロポーズ前のプレプロポーズの言葉であった。
しかし、変更後は初めから「好きだからずっと一緒にいたい」とバシッと告げていた。結果はわかっていたとしても、やっぱり喜びを噛み締めていた。よほどカンナが好きなのだと伝わってくる。そして、彼は「柿」の方を食べたのだ。
相手への寄り添いを意識しなければ、苦手なものを食べようとはしない。好きなものは変わらない。しかし、好きなものが違う2人でも一緒にいたい。違うからこそ楽しめる日常でありたい。それが「柿ピー」的楽しみ方だろう。駈は清濁を併せ飲んでも、生存ではなくカンナと一緒にいる生活を選んだのだ。
2人の職業はそのままだったかもしれない。それでも、幸せになれた。『花束みたいな恋をした』では、仕事による絹と麦の別れは回避できなかった。仕事をして本を疎かにするところは同じだ。『働いているとなぜ本が読めなくなるのか』(三宅香帆)。だが、未来を知った駈はきっと「本を読んでいる」。この豊かさが保たれたワールドはありえたのだ。
変更前、餃子はもともと人も動物も信じられないカンナが自分への慰みとして買っていた。しかし変更後、餃子は代引きでなく、駈のプレゼントとして届いた。きっとネットやテレビや雑誌などでカンナが見て「食べてみたい」と言っていたのを聞き、駈は密かに注文していたのだろう。彼女は落ち着いて、噛み締めて餃子を食べることができたはずだ。
2人でクリーニングの話もしていた。もう駈のシャツの襟は黄ばんだままではない。カンナに「ちょっと黄ばんできたんじゃない?」と教えもらえるからだ。互いの目が合う機会が多いならば自然なことだ。
重要なのは、これらの変化に関しては、駈も全く意識していなかったであろうことである。変更前にどのような状態だったか知らないはずだから変えようもない。カンナとの日々を少しでも良くしようという心がけがこれらの出来事を知らず知らず変えたのだ。
2人は違う存在で、赤の他人で、結婚してから解像度は上がって、何度も小競り合いや小さなイラつきは相変わらずあったはずだ。カンナの電気の消し忘れに、駈は小さなストレスを感じることもあっただろう。しかし、その消し方が変わった。あるいは口で「また消し忘れてるよ」と伝えたかもしれない。やることは変わらない。ただ伝え方や態度、滲み出る何かが変わった。そして歩み寄ろうとした。
それで、2人は幸せな15年間の夫婦生活を送ることができた。ご飯派とパン派でも一緒の食卓について生活を共にした。2本並んだペンは互いに無関心なようにも、満たされて寄り添っているようにも見える。ペンはあの時のカンナの心境を移す鏡であった。
結局、未来を変えたのはいつででもできたはずの話し合いだった。ただ、気持ちを伝え合うことだった。タイムスリップをしないと話し合えない状況でない私たちは、もっとこまめに話し合い、気持ちを伝えることができる(幸いにも)。
タイムスリップは、愛する人の生死を変えるのでなく、愛するという日常を取り戻すために使われたギミックだった。日常を大切にする前と後の対比が見えるという点で、マクロな装置をミクロな変化のために使う量子物理学の実験センターみたいに贅沢な使い方だったのだ。
カンナは緊急停止ボタンを押すことまでさせたが、未来は変わらなかった。むしろ、固定された必然的未来を無理に改変することを嘲笑うかのように、事件は死傷者を増やしより凄惨さになるばかり。
また、自分と一緒にならなければ死ななかったはず、幸せになっていたはず。そのような仮説のもと過去に戻ったとき観客サイドに明かされた事実が、リリフランキー演じる吉岡里帆、父は盛大なパワハラ男だったということだ。そもそも酒が飲めなさそうな駈に、気づいていないふりして「おれの酒は飲めよな」という無言の圧力を与え続けるところに完璧なパワハラが出ていたのだが、「本当に気づかない鈍感なおじいさん」というコメディの一要素っぽい感じで出てきたので最初は分からなかった。
つまり、結局吉岡里帆の方と結婚していたとして、彼が幸せになる未来なんてのはなさそうだったということである。隣の芝生は青い、否、隣のパラレルワールドは青い。
万策尽きたカンナは、おそらく最後の一回のタイムスリップで駈と純粋に最後のデートを楽しむことにした。そこで靴下にひっついた付箋が落ちて、互いに話し合うことになったのだった。
相変わらず電話はかかってきた。「大きな物語」が流行っていた時代ではきっと電話は鳴らず、駈が普通に家に「ただいま」と帰ってくる。しかし、そのような「奇跡」が信じられる時代ではない。私たちは冷(醒)めてしまった。「奇跡」は起こらず、相変わらず死を運んでくるベルは鳴った。愛する人の死の喪失は、カンナから感情の一切を奪っていた。だが、駈の残した手紙で笑顔に変わった。笑顔で餃子を受け取れた。
駈は誰かを助けるという人間性は変わらなかったし、その同じ変わらなさでカンナとの人生を選んだ。いずれも必然で、どちらかは選べなかった。生死よりも大切なことはあるという信念は変わらない。だから15年を大切にし、目の前の赤ん坊も助けた。妻を大切にする彼も置いていってしまう彼もまた同じ彼だ。
そのような、人の本質的な部分から起こされた行動、何度も同じようにしてしまう傾向、必然性をこそ、哲学者ヒュームは「自由」だと考えた。何度やっても変わらない駈の他者を救う犠牲にこそ、駈の「自由」もまたある。
一方、カンナとの関わり方は変わった。つまり、以前のような駈の冷たい態度などは、駈の変わらない要素ではなかった。彼は変更前、その点は「自由」でなかった。だからこそ変えることができた。つまり、日常は必然でなく偶然的な要素の集積であり、「不自由」な部分が多い。「不自由」な部分は自分次第で変えることができるのだ。
仲の悪い人が死んだ方が、愛する人が死んだときより悲しさは重くなさそうだと思ってしまう。しかし、手紙にあったのは、寂しさは好きという気持ちから来る、という言葉だ。その好きになった気持ちや時間は、それが失われたあとにも、同時に(ミルフィーユのように)残り続ける。
私たちに大きな物語なんてない。陰謀論でシンプルに世界を語る物語に惹かれるのも必定、世界はただこんなにも複雑で、何かが達成されたとしても(冷戦が終わっても、スマホができても、東京オリンピックが開催され、コロナが終わり、AIが進化しても)、生活にさしたる変化が訪れたとは思わない。それをどこかの組織が邪魔していると考えた方が楽だ。シンプルに自分らの不幸を説明できるから。
しかし、おそらく現実にそのような「巨悪」はない。「小悪」の集積でこうなっているだけだ。だから、何か一つ大きな悪を倒し、救済が訪れれば幸せな日々が取り戻される、わけではない。見るべきは生活にあるモノや人やコトのかけがえのなさで、するべきは「小さな悪」をたまに防ぎ「小さな善」を拾っていく細やかな試みだ。人間の自由意志があるとしたらここだ。
駈からの手紙にも、タイムスリップする特殊な能力よりも美味しいものを一緒に食べられることの方が奇跡だと思う、という旨の言葉はこの物語を象徴している。大きな演出でキッチュに楽しませ、ミニマルなかけがえのない(それでいて永遠の)幸せに着地する。これが『ファーストキス』におけるタイムスリップのギミックの使い方だった。
ただの夫婦の日常のシーンで号泣してしまった。日常は奇跡だ。
これを観て(あるいはどのような作品を見ようと)、なかなか日常は大きく変わらない。月曜日からはまたいつもの仕事が待っているし、日々の楽しみも苦しみも特に大きな変わり映えはせずまた1週間が過ぎる。しかし、それぞれの瞬間のかけがえのなさを何回か意識できるだけでも、何かは変わるのだ。
変わることと、変わらないことは並立する。
観終わって帰った後、オリジン弁当を食べながら録画がたまっているアニメ『火の鳥』を2人で観た。とても「大きな話」で、『ファーストキス』とは対極を為すスケールの中、1つ共通点があった。それは「永遠の命を求めるより大切な喜びがある」ということだ。永遠の命を求めるのは、日常の喜びが希薄だからではないか。「いいね」が必要なものだからではないか。
日常に奇跡が起きていること、起こりうることを私たちは知らない。一回切りの人生だから。過去、現在、未来が「ミルフィーユ」のように折り重なっていたとしても、それぞれの層を行き来はできないから。
しかし、想像することはできる。無数の小さな選択の果てに毎日が変わるのだと。大きな変化を望みがちな私たちは気付かされる。希望はここにあったのだと。
彼は15年後に死ぬとわかっていた。しかし、私たちは明日にも死ぬかもしれない。死は生を輝かすことで私たちに味方する。死んでない、それはすなわちまだ世界を味わえるということだ。
『ファーストキス』は、現実を忘れる映画とは違う。現実に響いてくる。日常に具体的に響いてくる作品だ。