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杏夏さんは本が好き「ヒトはなぜ先延ばしをしてしまうのか」

「ヒトはなぜ先延ばしをしてしまうのか」 著:ピアーズ・スティール 
                    翻訳:池村千秋

※小説形式の読書感想文です。プロローグはこちら↓

 疲れて帰ってきた日は総じて良くない。おかえり、と言ってくれる杏夏に適当に返事をしてから、茉波はソファにどかりと沈んだ。杏夏はまだキッチンに立ったままだ。夕食を作り終えていないのだろう。だからまだ運ぶ手伝いをしなくていい。それをいいことに茉波はかばんからスマホを引っ張り出した。さっさと部屋着に着替えるべきであることは分かっている。にもかかわらず、茉波はソファから立ち上がることもスマホをしまうこともしなかった。もちろんかばんは床に放ったままだ。
 それぞれが好き勝手につぶやいているSNSを一通り眺めたあと、ずらりと並んだニュースから適当にかいつまんで開いていく。その途中で、いつも遊んでいるアプリゲームに今日はまだログインしていないことに気がついた。
「おまたせー」
 そうして茉波がダラダラしているうちに、いつのまにか杏夏は、キッチンとテーブルの前をせっせと往復し始めていた。
 「あー」とも「うー」とも取れるような声で返事をしつつ、茉波は立ち上がらない。せめてストッキングを脱ぎ捨てたい。頭の片隅でそう思いながら、茉波はひたすらスマホをいじっていた。アプリゲームは今日からイベントが始まるらしい。すっかり忘れていた。 イベントの説明を読みながら、杏夏が椅子を引く音を茉波は聞いた。それと一緒に「マナもさ」と杏夏が呟いた。
「私と一緒に『ミス延期』に改名しよっか」
「はあ」
 変わった言い回しに、茉波はスマホではなく杏夏を見た。なぜか笑っていた。ただでさえいつも料理を作ってもらっているのに、運ぶことすら手伝わなかったのだ。怒るなら分かる。しかしなぜ笑っているのだろう。茉波は少し不気味に思った。
「ミス延期ってなによ」
「いやこの本に先延ばし度診断がついてるのよ」
 杏夏はいつの間にか持っていた本の表紙をを見せつけてきた。クリーム色の表紙に、紫の字で「ヒトはなぜ先延ばしをしてしまうのか」と大きく書かれている。
「一番ひどいと、あなたはミスター延期、ミス延期に改名したほうがいい、って書かれてんの」
「へえ、杏夏はどうだったの」
「杏夏じゃなくてミス延期と呼んで頂戴」
 わはは、と茉波はスマホを置いて笑った。笑い事じゃないでしょ、と杏夏は自分で言っておきながらちょっとむくれている。そして「マナも大概ひどいよ?」と続けた。
「着替えるの先延ばし、化粧落とすのも先延ばし。ご飯食べる準備するのも先延ばし」
「はい。ごめんなさい」
 茉波はさっさと立ち上がって、ダイニングテーブルの前の椅子を引いて座った。
「先に着替えてきなよ。食べながらゆっくりたっぷり講釈してあげるから」
 にこやかに言う杏夏に思わず顔が引きつりつつ、茉波は自分の寝室へ急いだ。

 ビジネス書や自己啓発書を読んだあとに杏夏が作る料理はいつも健康的だ。冷奴にサラダ、きんぴらごぼうにぶりの煮付け。それにプラス五穀米と味噌汁。今日も例に漏れずバランスの良い和食が並んでいた。
「先延ばしには三つの原因があるの。どれかに特化してたり、複合的だったりは人によるけど」
 ブリをほぐしながら杏夏が言った。茉波は味噌汁を啜ってからうなずいた。
「一つ目は自信の無さ。どうせうまくいかない、と思ってるせいで手を付けることを避けてしまう」
「うん」
「二つ目は興味の無さ。つまらなそう、面白くなさそうだからやりたくなくて後回し」
「うん」
 どちらも非常に分かりやすい。味噌汁に油揚げが入っていることを密かに喜びながら茉波はきんぴらごぼうに手を伸ばした。
「最後が衝動性に対する弱さ」
「うん?」
 急に聞き慣れない単語が現れて、茉波は顔を上げた。箸でつまんだごぼうがぽろりと五穀米の上に落ちた。
「要は目の前の誘惑に勝てない。やらなきゃいけないのは分かってるけど、別のことのほうが楽しそうだから後回し」
「ああ、そういう意味ね」
「着替えたほうがいいのは分かるけど、スマホの方が楽しいから後回し!」
「はい。ごめんなさい」
 先程から茉波は謝ってばかりだ。とはいえ実際、杏夏の言うことは正しい。別に今日に限った話ではない。さっさと風呂に入らなくてはいけないのにバラエティ番組をずっと見てたり、掃除をしなければいけないのにダラダラ漫画を読んだりするのは日常茶飯事だ。
「でもさ、それって割とみんなそうじゃない? そんなキビキビ動ける人ばっかじゃないでしょ」
「だろうね。だから売れてるんでしょ。この手の本は」
「たしかに」
「大丈夫。ちゃんと解決法も載ってたよ」
「へえ。どうすればいいの?」
「キーワードは『キュー』だよ」
 先程から得意げな顔をしている杏夏は、さらに自信満々な表情で言った。
 また聞き慣れない単語が出てきて、茉波はちょっとうんざりする。しかし今日は立場がすこぶる悪い。茉波は極力顔に出ないよう意識しながら返事をした。
「きゅう、ってなによ」
「要はきっかけのこと。やることは三つで、ひとつは誘惑対象を連想されるキューの印象を悪くする。二つ目はそのキューを取り除く。そして最後が新しいキューを作る」
「ごめん、分かんない」
 茉波は素直に言った。いまいち頭に入ってこない。
「ちゃんと説明するよ。例を上げれば別に難しくないから」
 杏夏はちょっと味噌汁を啜った。そしてまた口を開いた。
「一つ目のやつは、要は我慢できないものを意図的に悪く言う、ってこと。ダイエットしたいのにコンビニの新作スイーツが目に飛び込んできたとするでしょ。美味しそう、買いたい、って思っちゃうけど、即座に悪い方に考え直すの。値段の割に小さいな、そもそも美味しくないかも。みたいな感じで」
「なるほど」
 茉波は早速今日の自分に当てはめてみる。
「SNSだったら、みんな全然投稿してないかも。しかも私の好きな漫画の悪口書いてたりして、とか?」
「そうそう」
「ニュースサイトなら、今日の記事は気が滅入る記事ばっかりかも、みたいな感じか。一個一個わざと悪く考えてくってことね」
 うんうん、と杏夏は満足げにうなずいている。
「二つ目のはね、きっかけ自体を遠ざけちゃう。スマホだったら電源切っちゃう」
「なるほどね。でも電源切るためにスマホだしたらそのままいじっちゃわない?」
「じゃあ電車降りるときに切っちゃえばいいじゃん。そしたら帰って速攻スマホにはならないでしょ」
「……いっそ会社出るときに切っちゃえば、電車の中でもいじらないんじゃ?」
「じゃあ明日から本持ってこうか」
「うん。ああ、でも時間が分かんなくなっちゃう」
「腕時計買いに行こうか」
「うん」
「三つ目はね、新しいきっかけを作るってこと。これはなにかをやめるためじゃなくて、なにかを続けるため。コーヒーを入れたら仕事をする、九時になったらブログ書く、みたいなやつ」
「それ、最初が大変だよね」
「でも慣れちゃえば大丈夫だよ。朝の支度なんかまさにこれだよ。ベッドから出たら顔を洗う。顔を洗ったら化粧をする。化粧したら朝食食べて、朝食食べたら着替えて歯磨き。歯磨きしたら髪セットして家を出る。マナは毎日これやってるじゃん。この中に好きでやってるものある?」
「朝ごはんは好きだけど。あとは惰性だよね」
「できれば朝食終わったら皿をシンクに運ぶってキューも入れてくれるとありがたいんだけ」
「はい。ごめんなさい」
 たしかに茉波は毎朝好きでもない作業を黙々とこなしていることを自覚した。しかし同時に疑問も湧いてくる。
「でも夜や休みはだらだらしちゃうんだよね。これもきちんと決めればできるの?」
「無理じゃないけど、朝にはあって夜には無いものがあるよ」
「なにそれ」
「それはね、締め切りだよ」
 杏夏はほぼ中身の残っていない茶碗を置いて、箸を持った右手を得意そうに振った。さながら指揮棒だ。
「人は締め切りが近づかなきゃなかなかやる気が出ないんだよ。朝は嫌でも出勤時間っていう締め切りがあるからね」
「夜もいちおう日付が変わる前に寝ようと思ってるよ?」
「でも威力が違うよ。会社に遅刻するのは社会的にまずいけど、夜ふかしはちょっとの後悔しかない」
 杏夏の言い分は分かるが、茉波はいまいち納得できなかった。締め切りにそこまでの効力があるのだろうか。
「この本に面白いグラフが載ってるよ。一つは先延ばししがちな大学生の課題学習のペースのグラフ。最初の数日は安定してるのにどんどん中だるみしていって、最後に慌てて線が上に伸びてる」
 茉波はちょっと耳が痛かった。子供時代の夏休み終了前の数日が頭をよぎる。でもそんな茉波の横で、杏夏も同じように必死に宿題をこなしていたはずだ。やはりどっちもミス延期だ。
「もう一つは、アメリカ連邦議会の法案可決ペースのグラフ」
「なんで急にそんな小難しいのが出てくるの」
「どうなってると思う?」
 意地悪そうな顔の杏夏にすこし苛つきながらも茉波は思考を巡らす。
「要は国会でしょ? そんな頭のいいお偉いさんの集まりなんだから、さぞかしきれいな右肩上がりでしょうね」
「って思うじゃん? 実は大学生の学習ペースよりひどい。最後はもう大慌てよ」
「うそでしょ」
「だからもうね、人類共通って言っても過言じゃないよ。先延ばしは」
「なら計画通り進まないのが普通なわけだ」
「だからこそ先延ばししないやつが勝つ!」
 何に勝つの? と茉波が問うより先に、杏夏はごちそうさまと手を合わせた。それと同時に、部屋に電子音が響く。風呂が沸いた合図だ。
「風呂が沸いたら!」
 ドヤ顔で言う杏夏に一瞬面食らうも、茉波はすぐに答えることができた。要は電子音をキューにしたいのだろう。
「風呂に入る!」
「じゃあ洗い物よろしく!」
 鼻歌を歌いながら席を立つ杏夏を尻目に、今回はいつまで持つかなあ、と考えながら茉波は一口残った味噌汁を啜った。


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