人は何のために生きているのか。その答えは…
経営の神様
稲盛和夫氏。
稲盛氏の名前は
これまで
至るところで耳にしてきました。
書店に行けば
彼の著書を
目にしないことは
ありませんでした。
けれど
これまで
私は
彼のことを
よく知りませんでした。
とにかく凄い人らしい…
ということ以外は
ほとんど何も。
そんなある日のこと。
「経営の神様って誰だっけ?」
「稲盛和夫さんのこと?!」
「あっ、そうそう。
その人
すごい人なんだよね。
校長先生か話してた」
とうとう
息子までもが言い出した!
私は
無性に
稲盛氏のことが
知りたくなって
翌日
書店に足を運び
彼の著書『生き方』を買い、
早速読んでみました。
心が震えました。
ここ数週間の
自分の中に起きた心の変化。
正に
今だったんだ…
そう思えるような
素晴らしい出会いでした。
冒頭に、
こんな言葉がありました。
人生の真理は
懸命に働くことで体得できる
私にとって
この数年間は
むしろ
懸命に働くことを
手放してきた
数年間でもありました。
この数年の間に
握りしめていた
たくさんのものを
手放してきました。
仕事のこと
家庭のこと
たくさんのことを。
そして
自分と向き合う中で
気付いたことは
大切なのは
自分がどう在りたいか
ということでした。
懸命に働く時に
そこが
抜け落ちたままであったら
きっといずれ
潰れてしまうのでしょう。
稲盛氏の著書を
読めば読むほど
ここ数週間
体の声を聴く中で
感じたこと
気付いたことと
重なって…。
あぁ、この気付きは
人類全てに通じるもので
稲盛和夫氏の言葉で言えば真我
他にも
サムシング・グレート
ゼロポイント・フィールド
と言われているような
宇宙の意志なんだ…
そう思いました。
そして
少しでも
そこに近付き
成長するために
私たちは
今を生きているに違いない…
そう実感しました。
著書の中に
河合隼雄氏のこんな言葉が
載っていました。
ここに花が存在する
と言いますが
これを
「存在が花している」
と言っても
いいのではないか
実は
この話
随分前に
河合隼雄氏の著書を読んで
知ってはいたのです。
けれど
その時の私には
存在が花する
とはどういうことなのか
正直
よく分からなくて。
今になって
あぁそうか…と
ようやく
納得することが出来ました。
そして
そう思って
庭の紫陽花に目を向けた時
風に揺れる紫陽花は
正に
存在が紫陽花をしていて、
その姿は
真我そのもののようにも
思われました。
その姿に
圧倒されると共に、
色んなもので覆われ
真我とは程遠い
今の自分が
恥ずかしく思えてきました。
さて、
稲盛氏の著書に話を戻します。
65歳で仏門に入られた
稲盛氏は
その修行での托鉢の最中
通りかかった公園で
作業服姿で清掃中の
年配の女性に
出会ったと言います。
その女性は、
稲盛氏の一行に気付くと
小走りにやってきて
いかにも
当然の行為であるかのように
そっと五百円玉を
稲盛氏の頭陀袋の中に
入れてくださったのだと。
決して
豊かな暮らしを
しているようには
見えなかった
その女性の
何の躊躇いも
いっぺんの奢りも
感じさせないその姿に、
稲盛氏は、
これまで感じたことのない
感動、至福感に
満たされたのだと
言います。
マザーテレサの話の中にも
ある一人の貧しい子どもが
困っている人のためにと
自分にとって
大切な砂糖を
躊躇いもなく分けてくれた
というエピソードがあります。
利他の心。
誰かの幸せを願う
それは
人間の本質なのだと
改めて感じました。
自分の欲望、
幸せのみを
追い求めることで
本当の幸せに
辿り着くことはなくて…。
著書を読み終えた私は
あることについて
思いを巡らせていました。
実は、最近
手放そう
と思っていたことが
あったのです。
けれど
手放そうと思っていた
そのことに対して
私は
一体どれだけ
工夫をこらし
あるいは
努力を重ね
やれるだけのことを
やってきただろう…
諦めるのは
まだ早過ぎるのではないか
そう思えてきたのです。
手放す
それは
時には必要なこと。
けれど
最近の自分は
何でもかんでも
簡単に手放して
楽な方へ楽な方へと
行こうとしてはいなかったか…
そう思えてきたのです。
自分を大切にすること
それももちろん
大切なこと。
けれど
同時に
人として大切なことを
忘れてはいなかっただろうか…。
人として大切なことまで
手放して
自分を満たしても
本当の幸せから
かけ離れてしまうのではないか…。
私たちは
何のために
生きているのか…
そのことを
改めて深く
考えさせられました。
ちょうど
息子と
人は何のために生きているか
とか
自分の軸を持つこと
などについて
話す機会がありました。
息子からの
軸とは何なのか
という問いに
これが答えというものはなくて
それぞれが自分で
見つけていくもの
気付いていくものではないかと
話しました。
息子は
良く分からないなぁ
という顔をしていましたが、
「○○のこれまでの姿(言動)から
軸と言えるようなものを
お母さんは
何となく感じていたよ」
とだけ伝えました。
私自身もそうですが、
息子も人間ですから、
生きていれば
毒にまみれることが
あるでしょうし、
もしかしたら
そこから
道をあやまってしまうことも
ないとは
言えないでしょう。
だからこそ
人として
忘れてはいけないこと
そのことを
いつも
心の中に留めておき
そこに
立ち帰るということを
繰り返していかなければ
ならないのではないかと
そんな風に思いました。
今回
息子の一言がきっかけで
これまで
一度も手に取ることがなかった
稲盛和夫氏の著書を読み
彼の生き方から
たくさんの気付きや学びを
得ることが出来た訳ですが…
後で
息子からよくよく聞いて
驚いたのですが
息子が
校長先生から
稲盛和夫氏の話を聞いた
というのは
最近のことではなく
どの校長先生が話したことかも
憶えていなければ
小学生の頃なのか
中学生の頃なのか
それすらも忘れてしまった
と言うほど
随分前のことらしいのです。
そのことを
なぜか
今このタイミングで
話題にした息子。
そのおかげで
私は
こうして著書を通じて
稲盛和夫氏と出会うことが出来て。
私にとっては
正に今
それはまるで
神のはからいと思えるほど
ベストなタイミング
だったのです。
そして
実はもう一つ
こんなこともあったのです。
稲盛氏の著書を
読み終えた後
これまで
全く耳に留めることもなかった
ある曲の歌詞が
突然バーンと
耳に入ってきて
心を鷲づかみにされたのです。
それは
車の中で
何ヶ月も
流しっぱなしにしていた
槇原敬之さんの
アルバムの中の一曲で。
これまで
一度もじっくり
聴いたことがなかった曲でした。
その次の曲『もしも』が
好きだったこともあって
『もしも』が聴きたいがために
その曲を
飛ばしてしまうことも
多かったのです。
でも
不思議なことに
この日は
『もしも』が始まった途端に
一つ前の曲を
聴いてみたいという
不思議な思いに
駆られたのです。
それで
リターンボタンを押して
その曲に
意識を向けたのです。
思わず
はっとしました。
生まれた時の自分を
少しでも超えて
成長して
この世を去る
それが
生きるということ
この曲が
そう伝えてきたように
思えたのです。
その曲のタイトルは
『超えろ(Renewed)』
折しも
その日は6月30日。
夏越えの大祓。
箕輪をくぐり
穢れを清め
参拝した
帰りの車の中での
出来事でした。
この時
私は
目に見えない力が
はたらいていることを
改めて実感したのでした。
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