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いのちを祝おう

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
新約聖書 ヨハネによる福音書 1章1-5節(新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

いよいよ2024年も終わろうとしています。
今年のニュースで嬉しかったのは、ノーベル文学賞が韓国の小説家ハン・ガン氏に贈られたことでした。アジア女性として初めてのノーベル文学賞であり、大きな大きな快挙でした。私は以前から氏の作品に感銘を受けていたので、ニュースを聞いた時は「おお…!」と感動したのでした。

しかし彼女は受賞が発表された直後、お祝いの記者会見を行わず、このようなメッセージを発信しました。
「ロシア、ウクライナやイスラエル、パレスチナで戦争が激化し、毎日遺体が運ばれていくのに、何を祝うのか」。

彼女の作品群はまさに「社会の中で声を上げられない人、歴史の中で声を消されていく人」の、その声を掬い上げるような作品ばかり。そのような作家として、この会見拒否はさすがの対応であると、改めて感じ入りました。

手放しで祝っていい、喜んでいいはずの出来事の渦中にあっても、「今、社会の中で忘れ去られようとしている人たち、その声が黙殺されている人たち」への眼差しを失わない。その人たちの声を掬い上げることこそが、小説家としての使命であるというその姿勢に、深く頭を垂れる思いがいたしました。

このハン・ガン氏の言葉が、今の私たちにも響いてくると感じています。
「毎日遺体が運ばれていくのに、クリスマスだといって、正月だといって、何を祝うのか」。

ウクライナのこと、ガザのこと、ミャンマーのこと……。まさかと思った、韓国の航空機事故……。
あるいは国内においてずっと胸を痛め続けた能登の震災と、それに次ぐ豪雨災害……。終わることの無い差別と格差の連鎖……。
私たちの周囲にはいつも、たくさんの悲しみが満ちています。
そんな中で、クリスマスだといって、正月だといって、何を祝うのか。
この問いが私の中でどうしても拭い去れずにいました。

そんな中、「祝う」という言葉を改めて辞書で引いてみますと、「めでたいことがあった時、それを喜ぶこと、またその喜ぶ気持ちを表すこと」という説明に加えて、別のこんな意味も説明されていました。

「将来の幸運、幸福を祈ること」。

これも「祝う」なのですね。
礼拝における「祝祷」は、まさにこの意味での「祝う」です。

ああそうか、クリスマスや新年を祝おうという時に、それは華やかなパーティーをしたり高価なプレゼントを贈り合ったりすることだけではないんだ。今闇の中に置かれているいのちに、神さまからの救いが与えられることを信じて、その人たちに与えられるべきこの先の幸福を祈る、その意味において祝えばいいんだ。
そう思いました。

 そもそものクリスマスも、実は闇の中の出来事でした。
ご存じマリアとヨセフの若い夫婦は、旅先で初めての子の誕生の時を迎えます。
子どもの誕生という本来喜ぶべき出来事でありながら、彼らは宿屋に泊まる場所さえ与えられず、家畜小屋の中で動物たちの飼い葉桶に我が子を寝かせるという惨めな有様。
宿屋の中からは、旅の疲れを癒しつつ談笑する人々の声やその灯りが漏れていたかもしれません。でもそのような楽しげな空気を背景にしつつ、若い夫婦と幼子の置かれた状況は、とても暗く、孤独です。
子どもの誕生を共に喜んでくれる人もいない、まさに闇と呼ぶべき、悲しみと痛みのただ中で、救い主は生まれたと聖書は語るのです。

冒頭に引用したヨハネ福音書は、このイエスの誕生の出来事を暗示的に語っています。
救い主イエスは、闇に沈む私たちにとって、光であると。
闇は光を理解しないけれども、この光はすべての人を照らすのだと。

光が見えないような、そんな状況に置かれている人たちのために祝福を祈るクリスマス、新年にできたらいいなと思います。
そのような小さくされているいのちに、必ずや救いの光がもたらされるのだと信じて祈る。
その意味において「共に祝う」ことができたらと思います。


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