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私は、体弱性善説の研究をしています

私が人生をかけてまで、チャレンジしたいことは何か?

それが

「体弱性善説の証明」です

みなさんきっと

???

だと思います

これはネットで調べても存在しなかったので、私の造語になると思います。

これは思い付きで決めたわけではありません。

10年以上前から経験してきたことを棚卸し、私がこれまで歩んできた道のりを振り返った今、35歳の私ができること、

それが「体弱性善説を証明すること」です。

そしてこれが、私が命を捧げてまでも、成し遂げたいことになります。

この証明が社会に認知され、認められるようになれば

日本社会にとって、とってもプラスになることは間違いない

と信じています。

「体弱性善説」とはなにか?

では、この言葉について説明します。

(*ちなみに中村は大学では哲学を専攻していました。哲学を本気で自分の人生に生かそうとしている、自称「哲学実践家」です。哲学アレルギーの方、お許しください。)

字のごとく

人間は善なれど、弱し

ということです。
イメージを統一したく、図で表してみます

体弱性善説のイメージ

性善説とか、性弱説という言葉を聞いたことがあるかもしれません。体弱性善説のイメージは「弱」が「善」を覆っています(図解)。

かみ砕いて文章にすると、

私たち人間は
人間社会において非常に影響を受けやすく弱い存在(弱)だが
実は貢献したい生き物(善)である

です。
根源的には「善」ですが、表面的には「弱」として表れるということです。

大事なポイントは影響を受けやすいという意味で弱いという言葉を使っています

性弱説ではなく、体弱説である理由

そもそも、性弱説の方が馴染みがあると思うので「体弱説」と聞いて

なにそれ?

となる人の方が多いと思います。

この言葉は私のオリジナルなので捕捉します。
重要なのは、どの部分が弱いのか

ずばり

心ではなく、です

環境の影響を受けやすいのは、実は心ではなく体である、ということです。

むむ、、

ここは引っかかるかもしれません。「心が弱い」であれば、メンタル、気持ちなどの言葉に置き換えられますが、体が弱いとなれば、フィジカル的な弱さ(健康、筋力など)をイメージするかもしれません。

しかし、決して身体的な弱さを言いたいわけではありません。

説明します。

「体」弱説である理由①~防衛本能~


一つ目は私が大学時代に学んだ哲学から来ています。人間とはどういう生き物か?を様々な角度から学び、たどり着いた答えでした。
ここはかなり説明が必要なのですが、分かりやすく言うと、刺激に対する体の反応です。

みなさん
「脊髄反射」をイメージしてください。

沸騰したやかんを触って思わず「アツっ!」と手を引っ込めるアレです。
周知のとおり、あれは受け取った刺激が瞬時に動作にあらわれます。脳を介さずに体に影響が出ていますよね?

熱くて手を引っ込める、寒くてブルっと震えるなど

刺激に対する反応は心ではなく、体に直結している

そんなイメージをもっていただければ結構です。防衛本能のようなものです。

むしろ着目してほしいのは、これから話す2つ目です。

なぜなら二つ目の理由は膨大な量をこなしてきた私の実体験から説明できるからです。

「体」弱説である理由②~環境の鎧~


私は23歳から現在の35歳までの12年間、行商で生活をしてきました。自己紹介の写真、そして私のnoteのマガジン(行商日記)をご覧になれば、分かるかと思います。

唯一の食い扶持が行商だったので、食べていくために、かなりの量をこなしてきました。そして食べていけるようになってからは、仕事レベルから研究レベルに気持ちが変わっていきました。研究の成果は別の記事で書いてあるので、興味のある方はご覧ください。

私は研究のために、一日200人に声をかけることを目標に毎日行商をやってきました。その結果、気づいたら、10年間で35万人以上の老若男女に声をかけていました。

1日200人を目標にすると、1時間で20-30人に声をかけることになります。つまり2分間に1人のペースで声をかけることになります。それを毎日です。

信じられないかもしれないですが、これ、ガチなんです。

これです。

この映像はさらに速いペースで声をかけています。人によっては引いてしまうかもしれませんがw
どうぞご覧ください。


ここまでくると、不思議なことに「人の見え方」が変わってきます。

人を個人としてみるのではなく、概念としてみるようになってくるのです。

つまり
見た目、性別、年齢、職業などの個性を飛び越えて

人間の何かしらの共通点

が見えてきます。

「あ、人間ってみんな〇〇だわ」という、ある共通するものを発見したのです。

それは

人間はみな環境の鎧をかぶっている


ということです。

「環境の鎧」これが私の研究のキーワードになります。

とても重要なポイントのため、具体的に説明していきます。

お客様の「いらない」は心のNoではなく、体のNo


35万人に声をかけてきて、果物を販売してきた私は、人間に共通することを発見しました。それは、ほとんどのお客様は断ることが体に染みついている、ということです。

当たり前のことを言っている、と思うかもしれません。
そら、よくわからない、歩き売りの果物屋に声をかけられたら、怪しいから断るよね?

そんな風に思うかもしれませんが、実は少し様子が違います。

怪しいことが理由で、断っているわけではなく、その前の段階、声をかけた時点で

つまり、私を何者か認識する前に
既に断る準備ができているということです。


もう少しかみ砕いて説明すると

声をかけられたお客様は、その瞬間にもしかしたら何か危険にさらされると思い、身構えます。これは怪しいと判断する前に、体が勝手に反応するという感じです。

実はこの反応は人間にとって当たり前です。人間は子孫を残すために生きていかなければなりません。これは狩猟採集時代から語られていますが、命を奪われないように、危険なものに対しては「守ろう」という反応を起こします。一種の防衛本能ですね。

前述した、「脊髄反射」と理屈は同じで、反応しているのはですよね?
体がNoと言っているわけです。

もう一つ
防衛本能とは別に、環境の鎧が反応している場合もあります。

環境の鎧、詳しくは後述しますが、分かりやすく言うと、後天的につけられた、その人の個性・特徴みたいなものです。

親、友達、職場など、一定期間、それぞれのコミュニティに所属すると、その環境に体が馴染み、そこでのルールや常識が自分の性格や人格形成に影響を及ぼします。それについては、皆さんも体感しているのではないでしょうか。

例えば
私は昔いじめを受けていました。いじめていた人間のことを今でも覚えているのですが、その体型や声色など、細かな特徴が、脳裏に刻まれています。

実は大人になった今、そのビジュアルに似ている人間が目の前にいると、体が怯えるように反応してしまいます。その人ではないのに、です。トラウマのようなものです。

一方で
(これは自分でも笑ってしまうのですが)
ふくよかな人を見ると安心します。子どもの頃、大相撲をテレビで見るのが大好きでした。取組後の力士は、いつも「はぁはぁ」と息を切らしながら、インタビューを受けます。変に礼儀正しく、なぜか声が小さい。
私はそれを見て、子どもながらに何故か「かわいらしい」という感情を抱いたのです笑。なので、大人になってふくよかな人を見ると、イコール可愛いのイメージがあるので、安心します。

体験したことは違えど、みなさんも同じような感覚を持ったことがあるのではないでしょうか?

私は、独自の価値観やそれに基づいた人格は、そういった過去の体験がミルフィーユのように何層にも重なって独自の色を生み出し、形成されると思っています。

それを私は環境の鎧とよんでいます。

環境の鎧が反応するとはつまり、刺激を受けた時、本人の意志とは無関係に過去に刻まれた感覚が呼び起こされ、表に出るということです。

そして押さえておかないといけないのは、人間の防衛本能、もしくは環境の鎧が反射的に働いたということであり

本人の意思が働いたということではない

ということです。

つまり

心が反応しているわけではなく、体が反応しているだけ、というわけです。

極端に言うと、例えば
「私の性格はビビり」とか「私の性格は怖がり」という表現は間違えです。正確には「あなた」ではなく、あなたの体がビビりであり、怖がりなのです。

ニュアンスが伝わっていますかね??
心と体を明確に区別するのがポイントです。

環境の鎧が反応している分かりやすい事例

私は行商で35万人の老若男女に声をかけてきたので、実体験でお話しすることができます。

経験上、ほとんどのお客様は防衛本能、もしくは環境の鎧でNoと断ります。(大事なのは、お客様の心がNoと言っているのではなく、体がNoと言っているということ)

しかし、逆に声をかけられることに対し、ポジティブな反応のお客様もいます。

そんな人いるの?と思われるかもしれませんが

例えば、東南アジア系のお客様はとてもいい例です。

「すみません、あのー」と声をかけた瞬間に
「アラー、何モッテルノー?」とむしろ向こうから近寄ってきたりします。

聞いてみると、母国では行商している子どもたちや、それで生活している人が当たり前のようにいて、別に不思議ではない、ということなのです。むしろ、ものが新鮮だったり、交渉次第でオマケしてくれたりするので、ポジティブなイメージを持っているらしいのです(もちろんすべての東南アジア系の人には当てはまりませんが)

一方で

声をかけられることに対して、とてもネガティブなお客様もいます。それは「防衛本能」以上に、環境の鎧が過剰に反応している事例です。

例えば
・過去に知らない人に声をかけられて嫌な思いをしたことがある、
・ニュースで不審者の映像を何度も見て怖いイメージが植え付けられている
・親のしつけで、知らない人には絶対についていかない、と教えられた

などです。
体験の内容が濃ければ濃いほど、環境の鎧は分厚くなると思います、そして同じような場面に出くわすと、その鎧が力を発揮してあなたを守るように表れます

ただ、何度も言いますが、

ここでわかってほしいのは、

心がNoと言っているわけではなく、体がNoと言っているということです。

さて

以上のことから「人は生まれながらにして弱い生き物だ」は正確ではなく、正しくは、影響を受けやすい弱い体(=環境の鎧)で覆われてはいるが、本質的ではない、ということが分かります。

人間の本質は内側に隠れている

環境の鎧を取り外した先に何があるのか?これが最大の研究テーマ

さぁ最終局面です。
ここまでくると、一つの疑問が残ります。

それは

じゃあ人間の本質は何なのか?

です。

ここが私が最も研究したいテーマであり、命を懸けて追及したいことです。
環境の鎧を剝がしたその先、丸裸でまっさらな人間の本質の答えの部分です。

現時点、私の中で出ている答えは

人間の本質は善である

ということです。
人によって「善」の解釈は違うと思います。
善の正体については、別の記事に書きますので、ここでは詳しくは述べませんが、ポジティブなイメージはみなさんと一緒かと思います。

あえて言語化するのであれば、

「貢献したい生き物」

です。

そして、人「間」という言葉にもあるように、人と人との関係性の中で初めてそれが成り立つと思っています。人単体(たった一人)では性善説という言葉の意味を説明できないだろうな。。。と思っています。

ただし
あくまでも現時点での仮説であり、現在も実験中ですので、ぜひ実験過程(私の活動)を覗いてみてください。(2022/10時点)


体弱性善説の考え方が、日本社会にとてつもなく良い影響を与える

私はプロフィールにも書いているように、日本を元気にするためにこのnoteを書いています。

これは、私が現在行っている研究と実験の成果が、社会で評価されて初めて、プラスになったといえます。

私にとって社会で評価されるということは

体弱性善説をもとにしたサービスで、「経済を回していくこと」。

これを評価の基準に設定しています。
つまり
この考え方をもとにしたビジネスモデルで利益を上げ続ける

ということです。

しかし、この道のりは長いと感じています。
なぜなら、この利益の上げ方は現在の資本主義の枠組みの中で生きる私たちにとってはかなり逆行したスタイルだと思っているからです。

私は現在の資本主義の特徴を一言で表せといわれたら、「環境の鎧を刺激する資本主義(=体弱資本主義)」と定義します。

私は

この枠組みの中では、どれだけ経済を回したとしても、本当の幸せが手に入らないと思っています。

なぜなら、この資本主義の枠組みの中では、「〇〇より優れていることが最大の価値」とされ、必然的に比較と競争を生み出す社会だからです。私たち人間はその勝者になるために限られたイスを奪い合います。それは蟻のように群がり、闘いに敗れたものは社会的脱落者として、優or劣の「劣」の烙印を押されます。

なぜ

環境の鎧を刺激する資本主義(=体弱資本主義)が比較と競争を生み出す社会なのか

これについては別の記事で書かせてもらいますが、

要は、今の資本主義のままでは幸せになれないよ、ということだけでもわかっていただければと思います。

一方で
性善」を刺激する資本主義(=性善資本主義)においては本当の幸せを手に入れるという意味でかなりの可能性を感じています。

こちらも、なぜ可能性を感じるのか、については別の記事で詳しく書かせてください。もしかしたら文脈から想像がつくかもしれませんが、比較と競争の世界から抜け出した、新しい資本主義の中で手に入れる幸せのことです。

そのためには大前提「体弱性善説」の理解が重要であるということです。

私の活動をぜひ追ってください

だから、追ってください。
私の活動を。

みなさんには

実験中の

①行商
②無人販売所

この二つの活動を見ていただきたいのです。

12年間の行商で体弱性善説を実感したが、個人の体感レベル

行商は「体弱性善説」の考えをもとに既に利益を上げていますが、これはあくまでも、わたくしフルーツボーイ中村の個人的主観です。属人性が強く、一般化されていないので、体弱性善説の証明ではないと思っています。

なので
一般化するために、仕組化しようとしているのが無人販売所の事業です。

次は無人販売所KUDAMONO-BOXで「体弱性善説」を証明します


これは都内5店舗で絶賛研究中の事業です。

この事業は、個人の行商と同様、まさにこれまでに述べてきた体弱性善説の考えに則った事業になります。窃盗被害などのネガティブなニュースが流れる昨今においても、2年間にわたり、利益を上げ続けています。私はこの事業が5年後に芽が出て、10~15年後には目に見える形、つまり社会がこの無人販売所を認知し、評価されることを期待して、現在も実験を進めています。

最後に
私は、皆様からのフィードバックを強く求めております。疑問点や興味を持っていただけたりするのであれば、感想をいただけると幸いです。

日本社会を良くしたい、その思いを持っている方と積極的に繋がりたいと思っています。

それではまたお会いしましょう。


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