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なぜ僕たちは教育するのか

4月になり、私の教える大学でも新学期が始まりました。今年は英語のリーディングと通訳科目を担当しています。

うち英語の授業は英語が苦手であろう学生が多く、もちろん私もそこは想定の範囲内です。苦手意識があるところを取り払うのができなくても、彼らの中に何らかの風穴を開けられるような授業がしたいなと思っています。

しかし3回目の授業後に、「もしかしてこれは・・・?」という出来事がありました。授業中に議論した内容のまとめを、日本語で学生に発言してもらい、それを数文にまとめ、学生は次回までに英訳してくるという課題を出しています。その英訳を見た時、驚きを隠せませんでした。

なんと機械翻訳で課題文を丸ごと英訳し、それを提出していたと思われる学生がいたのです。英語が苦手なのだから、できた英文はもちろん完璧を求めることはできませんし、その必要もありません。ですがここまで思い切り機械翻訳を使う学生に出会ったのはこれが初めてです。

見てみると分かりますが、あまりにも綺麗に整いすぎた英訳なのです。学生の英語力からするに到底出そうにない英文が提出されていたのです。

ここでの問題は、前回の授業で「私は通訳者ですから、機械翻訳かどうかは一眼見ればすぐに分かりますよ」と釘を刺しておいたにもかかわらず、このような事態が発生したということです。何度も口すっぱく言ったので、話を聞いていなかったとは言わせません。

ここに教育をする目的を問う必要が出てきます。ここまで機械翻訳やAIが発達した時代に、なぜ英訳という面倒臭い課題をしなければいけないのか?学生としてもこんな考えを持っているかもしれません。

もちろん、それを全否定するつもりはありません。私も通訳する直前になって数百ページの会議資料が出てきた時は、さすがに機械翻訳を使ったら良いと思っています。

するとここで問うべきは、そのようなテクノロジーを使うべき場面と使うべきでない場面を区別する能力だと思います。文字数にして100字もない日本語を、1週間かけて英訳して良いのだから、むしろじっくりと考えて訳してみるという姿勢があっても良いのではないでしょうか。

今姿勢という言葉を使いましたが、この学習に向かう姿勢は、一朝一夕には身につかないものです。実際、社会人に通訳を教える際も学習習慣が十分についていないがゆえに、満足に通訳できないケースを私は見てきました。

大学で学ぶことは専門分野の知識や理論だったりしますが、これらは卒業すると大方忘れてしまうものです。しかし卒業するまでに何としても身につけて欲しいのは、何か学ぶべき分野が与えられた時にスムーズに学習することができるという学習への姿勢です。その姿勢を身につけるための材料として、たまたま専門分野の理論や知識が選ばれているだけだと考えることはできないでしょうか。

ではその学習姿勢は機械翻訳を使って、英訳をコピペして身につくのでしょうか?残念ながら答えはNOです。学習姿勢は面倒臭いことを一つ一つ、時間をかけてじっくり取り組むことで次第に身についていくものだと経験上思います。

私は一時期、高校数学の学び直しをしていました。今でも満足に問題が解けるとは思いませんが、まず数学に対する苦手意識を克服することから始めました。いまだに二次関数は応用問題になると解けません。時間はかかりましたが、結果として数学検定準二級合格、そして二級の一次試験まで合格しました。

その結果分かったことは、英語でも数学でも、時間をかけて自分のペースでやれば、分かることはたくさんあるということです。もちろん、数学のできる友人にアドバイスを求めたりすることもありましたが、そのような友人の存在が「もっと勉強しよう」というモチベーションにつながったことも成功要因だと思います。

英語の授業に話を戻すと、このような学習姿勢を身につける機会があるのに、機械翻訳を使ってしまう学生はそれを放棄してしまっていると解釈できるかもしれません。それは学生本人のみならず、「何でも機械が出す答えをコピペしたら良い」という価値観が広まってしまうと、社会にとっても損失です。

もしかすると、教育するというのは学習姿勢を身に付けさせることに尽きるのかもしれません。学ぶべき理論や知識は検索すればすぐに出てくる現代、そこに至るまでの過程を考えることができる人、「これはなぜこうなるの?」と問うことができる人こそが、周りが機械ベースの答えを出してくる現代において差別化できる要因となるのではないでしょうか。

そして授業で教えようとしていること(学習姿勢や英語)は、拍子抜けしてしまうくらいシンプルなものです。毎日決まった時間に本を読む習慣を付ける。簡単な四則計算は電卓を使わずにやってみる。英語で日記を付けてみる。何も斬新なことはありません。ですがJim Kwikも言っているように、Common sense is not common practice. (常識だからといって、誰でも実践しているわけではない)なのです。

私が勉強しているSDGsも同様です。SDGsは「2030年にこんな社会になることが理想だよね」という一種の答えを示しています。ではそこに至るまでの過程をどうしようか?というのが私たちに課せられた宿題です。機械翻訳では答えしか出してくれず、答えから逆算して過程を考えることはできません。

次回からの授業でも、ここに書いたことを学生には繰り返し伝えていこうと思います。どこまで伝わるかは未知数ですが、私は大学で教えることを「授業をする」とは定義していません。恥ずかしいですが「日本の未来世代を作りにいく」と定義しています。あと10回ほど授業がありますが、学生とどこまでつながっていけるのか、楽しみです。


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