こうして外来語は作られる?
今世の中に氾濫している外来語、これは一体どのような経緯で生まれるのでしょうか?以下、通訳者としての一考です。
外来語は通訳から生まれる?
通訳者は会議通訳のお仕事をするとき、通常は会議資料をいただき、資料を読み込んで、用語集を日英で作り、ある程度覚えてから本番を迎えることが多いかと思います。社内通訳時代でも私はそうしてきました。
しかしたまに資料が全く入手できないこともあります。そのような場合は半分ぶっつけ本番で臨むことになるので、通訳者としては非常に精神的に負担がかかります。「知らない言葉が出てきたらどうしよう?」という心配が脳を支配していくのです。
もちろん、お客様から「分からない言葉はカタカナで出していただいても大丈夫です」と仰っていただけることも多く、通訳者としてのメンツがとりあえず保たれたと一瞬安堵する自分がいるのですが、それでも何かモヤモヤが残ってしまいます。
このモヤモヤは何かというと、自分が通訳している内容を自分で理解できていない、というモヤモヤです。通訳者はまず、会議で話されていることを(自分では意味が分かっていなくても)別言語に移し替えるのが使命だと思います。ですがそこから経験を積んでいくと、今度は「自分が訳している内容を、自分で理解・納得した状態で出したい」という、一種の我が姿を見せることがあるのです。
しかしそういうことを考える暇もないのが同時通訳です。資料がなくてカタカナで音訳するしかない場合、そしてそのような会議が重要な会議であればあるほど、通訳者が音訳したカタカナを聞き手は用いるようになり、結果として外来語になってしまうこともあるのではないでしょうか。
もちろんそうでないと信じたいですが、語弊を恐れずに言えば、外来語は通訳(通訳者ではなく通訳という行為)が作り出していると考えることもできるのではないでしょうか。
外来語はメディアから生まれる?
その他にも外来語が生まれる要因というのはあって、例えば現代のSNSの発達が挙げられます。どこかで起こったことがSNSを通じて一瞬で世界中に広まっていく現代は、専門家が言葉を活字にして、書籍として初めて世に出回るのを待つというスローな時間の流れではなくなっています。仮にSNSである言葉がカタカナのまま広まってしまうと、それ自体が勢いをもち、社会でもそのカタカナを何となく受け入れてしまう傾向があるのではないでしょうか。
つまり外来語はSNSが作り出しているとも考えることができるのではないでしょうか。
またSNSがあるということは、メディアの持つ力が巨大になるということで、一度カタカナとして入ってきた外来語を無理やり日本語にしようとすると、SNSでは批判されてしまうという可能性もなきにしもあらずですね。外国語の引用を日本語で紹介するとき、「試訳」という言葉を最後に添えていることからも、インターネットで情報が溢れている中で、「唯一の訳」ではなく「ワンオブゼム訳」ですよという謙虚さを示すことが多いように私には見えます。
訳せない現代?
もう一つの要因としては、歴史的に見ても、現代は「訳すという力」が弱まってきていると考えることもできるかもしれません。一昔前だと例えば哲学者の西周や福沢諭吉などが幕末から明治初期、西洋からやってきた大量の語彙を日本語に翻訳したことは柳父章著の『翻訳語成立事情』に書かれている通りです。
例えば福沢諭吉はsocietyを社会と訳しましたし、西周はphilosophyを哲学と訳しました。これらは日常的にも頻繁に使う言葉ですね。であるからこそ、現代からすると非常に大胆だった当時の翻訳(和製漢語)がなければ、日本人は日本語で思考できなくなり、ここまで成長して来れなかったのではないかと考える人もいるほどです。
しかし2022年の現在、西周のような大胆に訳出する通訳者・翻訳者はあまりいないのではないでしょうか。メディアの力が大きくなりすぎて世界中の人々が情報を発信できるようになってしまったが為に、ある人がsocietyを社会と訳してみたところで、他の人はソサイエティーと訳すでしょうし、また別の人は別の訳をSNSに投稿するかもしれません。このような多様性の時代に一つの訳語を作り出して徹底するというのは、非常にハードルの高い作業となってしまったのかもしれません。