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人との距離感について、自分の振り幅が気になる日曜日

一文字も書けなかった日。そんな日のことも覚えていたい。
これは、私の私のための日記です。

ザァーッ。ザァーッ。精米しているときのような、際限ないノイズが聞こえて目覚めた。米不足……だもんな?と、寝ぼけてスマホの画面に触れると4時。外が大雨らしい。

キッチンに吊るしていたバナナが、熟して自重に耐えきれずボトッと落ちる。しかも、スローモーションで何度も。そんな夢を直前まで見ていた。

中途半端にスマホを触ると、返事すべき連絡と夢がごっちゃになってしまうので、目を閉じてもう一度寝ようとする。途端に、研ぎ澄まされる聴覚。遠くで雷が鳴っている。

隣の寝室にいる娘と夫。眠りの浅い夫は起きているだろう。一度寝たら朝までシャットダウンの私に対して彼の睡眠は、キーボードに手が触れるだけで画面が光るスリープモードのようなものらしい。(ドンマイ)

寝る直前まで読んでいた本のことを考える。向坂くじらさんの『いなくなくならなくならないで』。大好きで離れがたい友だち——他人との関係が描かれているのだが、ところどころ全身が粟立つような描写がある。自分の“他人との距離の取り方”が、「そんなんでええんか」と見事に掻き乱された。

あーどうしよう考えたくない。友情について、他人との距離感について。考えたくない。そう念じていたら部屋が明るくなっていて、娘が「ママ起きて」と起こしにやってきた。「おはよう」と答えるも、頭がだるい。

突然起き上がると低血圧で倒れるので、時間差で一階に下りる。家族の誰よりもダラダラ起きたことが恥ずかしくて、娘の部屋に置いていた水筒や乾燥の終わったキッチン周りのタオル類を抱えて、働いていました感を演出。朝ごはんの支度をする夫に挨拶をする。

夫は、ゾーンに入っていた。9時から仕事だからだ。父もずっとそうだったので、仕事が控えていてゾーンに入る男性というのを生涯見続けている気がする。どこか上の空で機嫌が悪そうな、そうでもなさそうな。

そんな中でも、朝ごはんをつくり娘に食べさせ後片付けもしてくれた。最近は娘が「パパのお見送りは私」という使命感に燃えているので、私はお見送りをさせてもらえず娘のパズルの前に座らされていた。

以前は、こうやって話さない時間が多いぶん夫との距離があり、私と娘がどんどんまとまっていく感覚に心が冷えたのだが、最近は夫と私のあいだに娘がいてくれて3人でまとまっているような気がする。1年で家族の形はこうまで変わるのか。

と、シンクに味噌が残ったまま干されている空き容器を発見。「これじゃ結局、もう一度洗ってもう一度干すことになるんだよな」と、スンとなる。スンの内訳は「器の小さい自分が嫌」が90%。10%はちゃんと「非効率への怒り」。

味噌を洗い落として再度容器を干して、娘がパズルを完成させるのをあの手この手で誘導した。集中している娘を前に「今この瞬間、私が本読んでても気にしないんじゃ」といった雑念が湧く。瞬間、雑念を振り払う。

こんな妻で、母で、申し訳なくなる。「ひとり(暮らし)が好き」が本質すぎて。夫も娘もすごく大事なのに、彼らと別れてひとりになってホッとしてしまったらどうしよう。『ランチ酒』の主人公・祥子ちゃんのこと、他人事に思えないし。

娘は、私の心配をよそにパズルを完成させた。驚いたり褒めたりすると、腰に両手をあてて誇らしげにする。気分が良くなったタイミングで歯磨きやお着替えを済ませて、出かける準備を進めていく。

そして、近所の商業施設の開店時間に合わせて家を出た。食事を目的に人が集まる場所でもあるので、昼までに用事を済ませたかった。私の実家に行くと勘違いしていた娘は、暗い地下駐車場で下ろされて落胆。「ジイジとバアバのおうちに行きたい」と拗ねた。

「今日はジイジとバアバがいとこ君を連れてうちに来るんだよ」と説明しても納得しない。そんな不機嫌を晴らしてくれたのは、天下のミスタードーナツだ。用事を済ませ店の前を通る際「ドーナツ食べる?」と聞くと乗り気になった。

「茶色のドーナツがいい」と、こちらを混乱させつつ(ドーナツはだいたい茶色や!)、1日の過ごし方についておおかた合意が取れて安心した。

うちに帰るとすぐに親と甥っ子がやってきて、無我夢中で遊びはじめる娘。ここでも、甥っ子や親との距離が詰まるぶん、娘と私との距離がガッと開く。その様子を見て「今日はもう大丈夫だ」と開放感に包まれる。

途中、野草を食べようとしたり、ダンゴムシを家に持ち込もうとしたり。子どもたちが暴走したら「野草にはセミのおしっこがかかってるかもね〜ん」とか「ダンゴムシさんが仲間を呼んで、ダンゴムシだらけの王国になっちゃうかもよ〜ん」とか、怖い想像を植え付ける役割だけ担う。

子どもは子どもどうしで遊ぶので、親は手持ち無沙汰に。父は、子どもたちが「ジイジ〜」と集まってくるとき以外はボーッとしていた。母は、私の代わりに家事を進めたり、うちにある画集を興味深そうに眺めたりしていた。

小さいころは、父も母も「親」というくくりで。「親は〜」といっしょくたに考えることが多かったけれど、大人になった私から見た親は水と油くらい違う生き物だ。

最初は母とくっついていて、次に父と母のあいだに入って、父や母以外とのつながりができて。それぞれとの距離が近づいたり遠くなったりして。そんなネットワークの中に置かれた自分を見つめてみて。「なんだみんな違うじゃねぇか」と改めて思うのかもしれない。

人間関係は、やっぱりどこまでも宇宙空間だ。広い。変化する。(同じ状態が続くなんてことはない)

親と甥っ子が帰り、兵庫県の住宅地で娘に夜ごはんを食べさせる私と、宇宙をただよう私の思考。友情がどうとか、ひとりが好きだとか、もうそんなのどうだっていい。だって、私はだだっぴろい宇宙にひとりなんだもの。塵なんだもの。

眠い目をこすりながら、食い意地を張って味噌汁の具をフォークでぶすぶすと刺す娘。力の入れ加減が絶妙で、フォークは玉ねぎを空振りしていた。えのきを引っかけるのは上手で、食物繊維やビタミン、ミネラルの摂取には成功している。

食後の眠気を利用して早めに布団に並ぶと、恒例のおしゃべりタイムが始まった。「お花摘んで虫さん捕まえて、たくさん遊んだね」「ママも楽しかったよね」「明日は18時にパパ自分で帰ってくるよ」「私は(保育園から)自分で帰ってくるからね」と、虚実てんこもり。

思わず頭を撫でると、にっこり微笑んだ。とたんに心が温かくなる。この子は「自分はひとり」だなんて気づいていない。まだまだ他人との境界線が曖昧なんだ。「同じ」と信じて他人と溶け合って、「違い」を突きつけられ他人に失望する。そんな過程を繰り返して大人になる(ひとりを受け入れる)のは寂しいことなのかもしれない。

娘の寝顔を確認してサッと起き上がり、紅茶を淹れてひとりを謳歌する。他人に惹かれ離れがたく感じる私と、ひとりが好きな私。この振り幅を、とにかくいまそのまま書きたいとnoteを開いた。

書いて読み直して思う。私が家庭を持っているなんて、奇跡中の奇跡なんだと。まずは夫に、成長したら娘に、聞いてみたい。「私が妻で、母で、大丈夫でしたか?」と。

今日もバナナが熟れて落ちる夢を見たら、どうしよう。どうしようと不安になるわりに、どんと来いとも思っている自分、どうしよう。自分の振り幅が気になる。いつも動揺してしまう。

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