日本人と名前

 少し前に「家紋」について調べたことがある。正確には文様について調べていたら、家紋にたどり着いてしまったのだ。家紋のようなものは日本以外にも存在するが、種類や普及度でいえば、この国の家紋文化は群を抜いる。そして、名前もそう。種類や漢字、バリエーションが豊富。「サイトウ」だけでも、斉藤、斎藤、齋藤、齊藤。。。「山崎」はヤマサキなのかヤマザキなのか。

 もともとは氏姓(うじかばね)からスタートした日本の名前は、苗字や官位、字(あざな)や諱(いみな)を記すようになり、貴族や武士などはどんどん長い名前になった。織田信長も本名は平朝臣織田上総介三郎信長という。これも信長が上総介のときの名前だ。このように当時の名前は生まれてからずっと同じものを使うのではなく、元服したり、官位が上がったりするたびに改名した。一方、庶民も個人を識別する名前はあっただろう。しかし、苗字が出自や位を示すようになると、遠慮して使わなくなり、そのうち苗字は権威の象徴となっていった。江戸時代になると、幕府が正式に武士以外が苗字を公に使うことを禁ずるようになる。そこで使っていたのは屋号だ。いまでも地方にいくと、苗字よりも屋号のほうが通りやすい地域が存在する。地域住民の半分近くが同じ名字という地域などは、屋号呼びが残っている。ある記事で沖縄では、会社でも学校でも、下の名前で呼ぶことが多いとあった。だから、内地の人がファーストネームで呼び合う職場にいくと、ずいぶん仲の良い職場だなと感じるらしい。しかし、これは、同じ名字が多い沖縄で人違いしないための対策であって、特に仲が良いわけではないようだ。同じようなことは、鈴木や佐藤といった苗字の人にも言えるようで、苗字で呼ばれるよりも断然ファーストネームで呼ばれる頻度のが多いし、そんなに仲が良くない人にもファーストネームやニックネームで呼ばれてきたと彼らは言う。そんなものかもしれない。名前が個人の識別という機能だけ考えれば、そうなることは至極当たり前だ。

 しかし、友人の話はこの個人識別のための名前という、名前の大前提を覆すようなものだった。彼女がアメリカにホームステイしていた時の話だ。その家には3人の息子がいた。ホストファミリーのお父さんから、彼らの紹介があった。「この子が一番上のお兄ちゃのジョン、こっちが真ん中のジョン、そしてこれが末っ子のジョン。で、わたしが父親のジョンです」と。全員ジョン?どうやって識別するのかは皆目見当がつかないが、彼女によると「時間が経つと、なんとなくどのジョンなのかは、わかってくる」そうだ。おそろしい事実である。私なら、荷物をまとめて帰国したくなるような話だが、ホントの話である。よく考えてみると、ドナルド・トランプ・ジュニアやロバート・ダウニー・ジュニアなど親と同じ名前の人は意外といるし、ルパン三世だってアルセーヌ・ルパンという代々同じ名前を名乗っている。私の父方の実家も、曽祖父まではずっと同じ名前を名乗っていたと聞いたことがある。しかし、同じ家に同じ名前の人が3人も4人もいたら混乱しそうだけど、そこはニックネームが違うから大丈夫らしいが、そこまでして同じ名前にする必要はあるのだろうか。

 子供が生まれると、親はその子供の幸せをねがって考えに考えて名前を付ける。少し前から「キラキラネーム」と言われるような名前が流行し、漢字を見ただけでは呼び方がまるでわからないという名前が流行した。名前に使う漢字は常用漢字、人名漢字、ひらがな、カタカナ、長音符、踊り字のみだが、読み方に規制はない。だから、「宇宙」とかいて「ひろし」と読んでもいいし、「月」と書いて「ルナ」と読ませても良いのである。私は、昨今の風潮をみて、名前に思い入れし過ぎだとおもってきた。しかし、前述のジョンの件を知ったいま、名前につよい思い入れを持っているのは、日本人だけではないのかもしれないと、考えを新たにしたところだ。

 世界には苗字がない国も多く、常識だと思っていることも案外そうでないことが多い。知るいうことは、おもしろいことを発見することであり、なかなか外に出られない今だからこそ、知らないことを知ることで、世界の面白いを発見する毎日でありたいとおもう。

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