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座右の書「いいかげんのすすめ」ひろさちや

拝啓 奥さんへ

夫の座右の書は、ひろさちや「いいかげんのすすめ」(PHP)です。
200ページちょっとの簡易な言葉で書かれた本ですが、何度も繰り返し読みたくなるような小話が揃っています。それでは、さっそく読んでいきましょう。まずは、アウトラインから見ていきましょう。大きく四章に分かれています。

  1. 「あきらめ」のすすめ

  2. 希望を持つな

  3. 「いいかげん」のすすめ

  4. ご縁を大切に

それぞれのサブタイトルは下記のとおりです。

  1. 思うがままにならないことを、思うがままにしようとしてはいけません。

  2. 未来を悩まず、今日を楽しく熱心に生きればいいのです。

  3. がんばってはいけません。ゆったりと人生の旅を楽しみましょう。

  4. この世にはほとけさまがお考えになったいろいろな配役があるんです。

そして、あとがきで、実は書いたことの十分の一も実践できていない(笑)と告白します。でも、それでもいいいのです。実践できなくても、まず仏教の教えがどういうものであることを知ることが大切です。門前の小僧習わぬ経を読むですね。夫もそうでありたいと思います。

本日は、「いいかげんのすすめ」の中でも、特に夫が好きなお話について簡単に紹介したいと思います。

慢:他人と比べればこころが騒ぐもの

「隣で蔵が建てばこちらで腹が立つ」といったことわざがあります。人間の心理をよく言い当てた言葉です。仏教では、「慢心」を戒めています。そして、慢心というものを、さまざまに分析しています。仏教は分析が大好きなのです。次の4つが、自分と他人を比較したときに生じてくる慢心です。

  1. 慢:自分より劣った者に対して、あいつより俺のほうが優れていると思い、自分と同等な者に対して、彼と自分と同等であると思うこと。なんだ、それでは実力を正確に判定しているではないかと思いますが、実力を正確に判定したところで、わたしたちの心は驕り高ぶるのです。

  2. 過慢:自分より同等な者に対して、自分のほうが優れていると思い、自分と優れた者に対して、自分と同等であると見ること。過信していますね。

  3. 慢過慢:自分より優れた物に対して、彼より自分のほうが上だと見ること。これは自分を二段階高く評価しているので、愚かですね。

  4. 卑慢:自分より優れた者に対して、自分のほうが劣っていると知ること。これは実力は正確に判定しているのであるが、それでもこころは騒ぐものです。仏教では、そのこころの騒ぎを不可としてしています。

それでは、慢心をおこさぬためには、どうすればよいか・・・。ごく普通には、他人と自分を比較するな、ということになります。しかし、そういわれても、つい知らず知らずのうちに比較しているのがわたしたち凡人です。そこで、ひろさちや先生は、自分のいまの状態が、ほとけさまが誂えてくださったものだと思うようにしているそうです。それに文句を言えば、罰が当たる。そうやって自分に言い聞かせているそうです。他者と比較しないように気をつけたいと思います。

大道:日常生活そのものが悟りへの道

禅の言葉に「大道、長安に透る」という言葉があります。これは、すべての道が長安に透じているということで、私たちのする日常茶飯事がすべて禅の悟りへの道だというのである。中国、唐の禅僧、趙州の言葉です。この言葉の意味は、日常生活そのものが禅の実践ではなければならないのに、日常生活の外に禅の道を求めている愚かさを、趙州が叱っているのです。

人生に廻り道はありません。つまり、無駄はない。自分が歩いている道を廻り道だと思うのは、日常生活を離れたところにしか禅の道がないと考えるからであって、そんな考えでいると趙州に叱られてしまいます。いま、自分が歩いている道が大道であり、その大道は長安に透っているのです。いや、私たちは、自分がいま歩んでいる道は大道にしなければならない。それが、中国の禅僧の教えです。これは励みになりますね。

断善:気長に待てば善に復する

仏教では、あまり悪という言葉を使いません。善という言葉に対しては、その否定形である不善とか断善という言葉を使います。「断善」とは、善が絶たれている状態です。これはあくまで状態であって、そうした永遠不変のの事実があるわけでありません。太陽が雲で隠されている状態と思えば良いでしょう。雲がなくなれば、再び地上は晴れるのです。だから、断善不相続と言います。善が絶たれている状態はいつまでもつづくものではない、という意味です。いつかきっと、善に復する。その意味では、仏教は性善説をとります。

仏教の開祖の釈迦は世間で悪人と呼ばれる人を、悪人とは見ませんでした。この人は断善の状態にあるが、それは長く続くことはないだろうとも見られ、その人を許された。そして、その人から被る迷惑に、じっと耐えられたのです。それが釈迦の、いわゆる悪に対する基本態度でした。私たちも、相手が断善の状態にあるとき、じっと気長に待ってあげなければいけません。と同時に、私たち自身が断善の状態になったとき、できるだけ早くその状態がから抜け出すべきです。夫は性善説の考えで生きたいと思います。

中道:努力も怠惰も「いいかげん」が大切

ひろさちや先生は「いいかげん」のすすめをしています。人間は努力するのもいいが、それもほどほどがいいのであって、過度な努力はいけません。もちろん、怠けることもよくないが、努力のしすぎもよくないのであって、「いいかげん」が一番いいのです。このいいかげんこそ、仏教の根本精神である「中道」だと考えます。

私たちは「腹八分目」という言葉は知っています。肉体面な面ではいいかげんが一番いいと理解されています。しかし精神的な問題になると、なかなかいいかげんを認めてもらえません。努力、努力と、努力ばかりがやけに協調されてしまいます。困ったものです。心身ともにほどほどでいきましょう。

救済:ほとけの加護は、順境には猿の道、逆境には猫の道

猫か?猿か?中世インドの宗教哲学者は、人間の救済に対しておもしろい論争をしています。

人間が救われるのは、基本的には神の恩寵による。この点では、彼らの考えは一致していました。では、神がわれわれを救ってくださるのであるから、私たち人間は何もせずにのほほんとしていいのだろうか。その疑問に対しては、猫の道を主張する者と、猿の道を主張する者の二派に分かれました。

私たち人間はのほほんとしてよいというのが、「猫の道」です。子猫がそうです。子猫はじっとしていて、母親が子猫の首をくわえて運んでくれる。ところが、猿の場合は、確かに子猿は母親に運んでもらうのであるが、子猿は一生懸命に母親にしがみついている。子猿のほうにも、それだけの努力が要請されているのである、それが「猿の道」です。

実は、この論争には決着がついていません。ひろさちや先生は折衷案として、順境にあっては「猿の道」、逆境のときは「猫の道」を選ぶとよいと説いています。なにもかもうまくいく順境のときは、ほとけの加護を信じて、一所懸命に努力すればよい。しかし、逆境にあっては、もがけばもがくほど苦しくなる。努力すればするほど、泥沼にのめり込む。そんなときは、ほとけの加護を信じてじっとしておいたほうがよい。すなわち「猫の道」です。
そうして忍耐を続けていると、きっと逆境から抜け出せる。永遠に降り続ける雨はないのだから。

以上、座右の書「いいかげんのすすめ」のご紹介でした。多謝。





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