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「コナトゥス(努力)」とは?

拝啓 奥さんへ

ラテン語で「コナトゥス(conatus)」という言葉があります。スピノザの有名な概念です。あえて日本語に訳せば「努力」になってしまうのですが、これは頑張って何をするという意味ではありません。「ある傾向を持った力」と考えれば良いでしょう。

コナトゥスは、個体をいまある状態に維持しようとして働く力をことを指し示します。医学や生理学で言う恒常性(ホメオスタシス)の原理に近いと考えれば良いと思います。例えば、私という個体の中の水分が減ると、私の中に水分への要求が生まれ、それが意識の上では「水が欲しい」という形になります。エチカで、コナトゥスを定義した定理が次のものです。

おのおのの物が自己の有(存在)に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない。

エチカ(スピノザ)

ここで「努力」と訳されているのがコナトゥスで、自分の存在を維持しようとする力のことです。興味深いのは、この定理でハッキリと述べられてるように、ある物が持つコナトゥスという名の力のこそが、その物の「本質 essentia」であるとスピノザが考えていることです。

「本質」は日常でもよく使われる言葉ですが、もともとは哲学に由来します。「本質」が「力」であるというスピノザの考え方は、哲学史の観点からみると、非常に大きな概念の転換があるのです。

古代ギリシアの哲学は「本質」を基本的に「形」ととらえていました。ギリシア語で「エイドス eidos」と呼ばれるものです。これは「見る」という動詞から来ている単語で、「見かけ」や「外見」を意味します。哲学用語では、形相(form)と訳されます。物の本質はその物の「形」であるという考え方です。

それに対してスピノザは、各個体が持っている力に注目しました。物の形ではなく、物が持っている力を本質と考えたのです。そう考えるだけで、私たちのものの見方も、さまざまな判断の仕方も大きく変わります。「男だから」「女だから」という考え方が出てくる余地はありません。例えば、この人は身体はあまり強くないけれど、繊細なものの見方をするし、人の話を聞くのが上手で、しかもそれを言葉にすることに優れている、そんな風に考えれるわけです。

エイドスに基づく判断は、実に抽象的です。どのような性質の力を持った人が、どのような場所、どのような環境で生きているのか。それを具体的に考えたときに、はじめて活動能力を高める組み合わせを探し当てることができる。ですから、本質をコナトゥスとしてとらえることは、私たちの生き方そのものと関わってくる、ものの見方の転換なのです。

ある刺激に対する反応は人によって異なるだけでなく、同じ人でも時と場合によって異なります。例えば、音楽が好きな人でも、疲れているときにはあまり聴きたくないかもしれません。けれど、調子の良いときには、いい音楽を聴くととてもいい気持ちになって、活動能力が上がります。人の中にある力というものはかなり大きなふり幅をもって変化しています。それゆえに、刺激に対する反応の仕方も時と場合に応じて大きく変化します。

スピノザも「異なった人間が同一の対象から異なった仕方で刺激されることができるし、また同一の人間が同一の対象から異なった時に異なった仕方で刺激されることができる」と指摘しています。ここでいう反応のことを、スピノザは「変状 affectio」と呼びます。変状とは、あるものが何らかの刺激を受け、一定の形態や性質を帯びることを言います。

変状する力とは、コナトゥスを言い換えたものです。例えば暑さという刺激を受けると、発汗という変状が身体に起こります。これは熱を冷ますことによって自分の存在を維持するための反応であり、コナトゥスの作用です。力として本質の原理がコナトゥスであり、それは変状を司さどるという意味で変状する力として捉えることができます。私たちは常にさまざまな刺激を受けて生きているわけですから、うまく生きていくためには、自分のコナトゥスの性質を知ることがとても大切になります。

スピノザはさらに、この本質としての力を「欲望 」とも呼んでいます。

さてまた欲望は、各人の本質ないし本性がその与えられたおのおのの状態においてあることをなすように決定されたと考えられる限り、その本質ないし本性そのものである。

エチカ(スピノザ)

少し分かりにくい文章ですが、本質は力です。力ですから、それは刺激に応じてさまざまに変化します。たとえば私の本質は、aという刺激によって、Aという状態になることを決定される。そしてそのAという状態は私に、「あることをなすように」働きかけます。この働きかけが欲望であり、その欲望は本質そのものだというわけです。

このようなスピノザの考え方を、「エソロジー ethology」の考え方になぞらえることができます。エソロジーというのは生態学や動物行動学と訳される、生物学の比較的新しい分野です。生物学は、動植物などの形態を分類し、記述することを基本とします。それに対しエソロジーでは、生物がどのような環境でどういう行動を示しながら生きているのか、つまり、具体的な生態を観察し、記述するという方法を取ります。

エソロジーの語源は、エチカの語源と同じ、ギリシア語の「エートス」です。スピノザのエチカとエソロジーは、生物や人間が生きていく場所や環境に注目し、その中でどのように生きていくのかに注目するという意味で発想が同じです。エソロジー的な視点によってエチカが可能になるとも言えます。スピノザによる本質概念の転換は本当に豊かな意味を持っていますね。多謝。

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