カラダが喜んでいる
TRE(トラウマ解放エクササイズ)とファイブリズム
先日、エサレンマッサージのつながりで知った
「トラウマ解放エクササイズ」と
「ファイブリズム」のクラスに参加してきた。
「トラウマ解放エクササイズ」とは…
私たちの身体は、トラウマになるようなショックな出来事やそこまでいかなくともストレスによって体を緊張させるようにできている。
緊張は悪いことではなく、自然なことなんだけど、
その緊張からもう離れていいんだよってなっても、緊張状態が続いていることが多い。
人間の身体にはその緊張状態を「震え」によって自然と解放させるという機能が、ある。
とくに大腰筋を震わすことでその解放が起こるのだそう。
でも、現代の私たちの身体ではその機能が眠っている。
だからある決まったエクササイズをして、大腰筋を中心に震えを自然と起こすことで、過去のトラウマやストレスによって緊張した状態を解放しようというワーク。
↑すごくない?
私たちの身体には、そんな機能が備わっていて
それを忘れてしまった現代人のために決まった一連の動きを開発してくれた人がいるなんて!
そして受けてみた感想!
「これ、全人類やったほうがいいよ~~~」
震えは初心者の方はあまり震えない、小さいといわれていたけど
私の場合はちょっとびっくりするくらい震えた。
筋肉に若干負荷をかけるエクササイズをして、決まった姿勢になると震えが起こってくるので
最初は筋肉を使いすぎた後の小鹿みたいなプルプル感かな?と思っていた。
実際始まりはそんな感じだったのだけど…
そこからは激しい貧乏ゆすりのような震えが起こってきた。
筋肉疲労のプルプルとはまるで違う。
そして、初心者の方は下半身(ひざが揺れる)の震えが主に、と説明を受けたけど上半身が揺れる場合もあるのだそう。
私は後半左の腕がガッタガッタと痙攣するように揺れた。
(終わってから、左の肩甲骨の内側あたりにいつもある痛みがなくなっていたことに気付く。)
震えを感じながら、先生がこんな声掛けをしてくれた。
「身体を褒めてあげましょう」
「もっと揺れていいんだよ、いい感じだね、などと声をかけてあげてください」
人生でおそらく初の激しい震えに若干戸惑っていた私
思考が片隅で「大丈夫かなぁこれ」
「私がわざとやってるんじゃないのか?」
と口をはさむ。
顔の筋肉や表情をゆるくして、
「すごいね。よく揺れてるね!」
「もっと揺れてもいいんだよ。大丈夫だよ。」
と心の中でカラダに声をかける。
するとカラダはますますガッタガッタと
ユッサユッサと笑
揺れてくる。
カラダとコミュニケーションが取れた
カラダと、コミュニケーションがとれたように感じた。
無意識化で
心臓を動かし血液を運び
食べ物を消化し排泄し
細胞を修復し…
毎日毎日もくもくと働いているカラダに意識を向けて、声を掛けたら、
それにこたえてくれたのだ。
カラダの内側から湧き上がってくる感情。
それは「嬉しい」だった。
なににうれしかったのだろう?
ワーク中ににやにやするくらい
嬉しい感情が湧き上がってきた。
カラダは、カラダに意識を向けてもらったことがうれしかったのかな?
それとも長年の溜まりに溜まった緊張を手放せてうれしかったのかな。
そのどちらでもであるように感じる。
TREが終わり、
ファイブリズムが始まる。
「踊る瞑想」といわれるそれは、
音楽に合わせて自由に踊る…のではない。
カラダから湧いてきた動きをただただしていく。
音楽に合わせたくなれば合わせて。
別にそうでなくても、大丈夫。
地を這うような不思議な動きや
でんぐり返しをしたくなるような感覚や
時々音楽、リズムに体が勝手に反応したり
そんなことを合計2時間くらいかな?やっていた。
いやはや、楽しかったーーー
けども、絶対筋肉痛だわ、明日!
と覚悟していたのだけれど。
翌日まったく筋肉痛はなく、むしろ
いつも痛みがある体の箇所が痛くない!
内側がふわっと緩んで、やわらかくしなやかだ。
そしてそれが、その後ずっと続いている。
カラダが動きたいように動いてあげる。
何にも意図しない。
なんにもコントロールしようとしない。
主導権はあなた(カラダ)だ。
そうやってただただ動いた。
踊っているようでもあるし
そうでないようにも感じる。
カラダは、思考でコントロールしなくても
すでに知っている。
不自然なところ(痛みや硬さ)を元に戻す力がある。
それは、ちっぽけな知識にまみれた思考より
はるかにおおきなおおきな智慧だ。
ファイブリズムでの経験も、びっくりするものだった。
ファイブリズムやTREをすれば体の不具合が調整されるよ、なんてことはきっと目的でもないし謳ってもいないのだけれど、
結果としてそうなったということが、面白い。
気付いたのは、
私が普段「私」と思っている思考は、
どうやらものすごーく小さな範囲のようなんだ。
そのちいさな範囲で右往左往している間に、
カラダという自然はただただ機能している。
カラダが自然。
カラダは有機物で、自然で、宇宙のように広い。
思考はそのなかにすっぽり覆われた
ちいさなちいさな一部分でしかない。
そしてカラダは、いつもいつも思考のなかに入り込んでいる「意識」に
見てもらうこと、
意識を向けてもらうことがうれしいみたい。
私のカラダ、という感覚でもない。
カラダこそが私、という感じでもないのだ。
そこにただでっかい木があり
脈々と水分を吸い上げ
芽を出し花を咲かせ…
そんな「いのち」というでっかいでっかい存在が、
カラダ、のようなのだ。
私ではない。
私のものでもない。
だってコントロールできないし、
すごくすごく大きいもの。
とても不思議な感覚が芽生えた。
言語化してもいまいちピンとこないぞ…
とりあえずはここまで。
続くかもしれません。