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生と死について

以前の50回記念の記事、「後悔しない生き方」でも書きましたが

最近「定年後に何もすることがないと思っている人に向けて、明日死ぬかもしれないと思って、やりたいことを今日やろう」と無気力になる人を励ます言葉を見かけます。

しかし私は全く逆です。「明日死ぬかもしれないなら、なにも今日頑張る必要はないんじゃないか」、「明日があるから頑張れるのだ。」と思ってしまいます。

明日はどんな日?

明日がないなら、「何のためにがんばるの?」、「もう成長も進歩もないんだし。」、「やりたいことはいっぱいあるのに、もっと時間をくれよ。」と思います。

人は毎日が勉強です。死ぬまで勉強なのです。そうすることで自ら少しずつでも成長できるから、頑張れるのです。
生きている限り、人は成長しなければいけないと思っているのです。
死が目の前に迫っていると分かれば、その歩みは自然と止まってしまうことと思います。ですから、私にとっては全く励みにならない言葉なのです。

歩みを止めない

中学生のころはよく生と死について本を読み漁っていた記憶があります。内容はもう忘れてしまいましたが、永遠のテーマなのかもしれません。

私は、死後の輪廻転生ということがあると思っています。
しかし、仏教とかのそれとは少し違います。
生まれ変わるのにも、早い遅いがあるだろうし、何に生まれ変わるかも人によってまちまちだと思っています。人は人に生まれ変わるとは限らないと考えています。人から人に生まれ変わる人もいれば、人から動物になる人も植物になる人だっているでしょう。逆に動物から人に生まれ変わった人もいると思っています。

やった~

それらを分かつものは、生きていた時に何を考えて何を成したかということ。

この世の生きものにはすべて命、魂があり、それぞれ影響し合い、補い合いながら生きています。(以前の記事がこちら)

それらの生きものたちのために(人間とは限りません)、何かを成したのかどうかによって、また人に生まれ変われるかが決まるのではないかと思っています。逆にそれらの生きものたちに害をなしたなら、その対象や程度によって、次に何に生まれ変わるかが決まってくるのではないでしょうか。
身をもってその苦しさを知るためにです。

すべての生きものの命、魂はこうやってぐるぐると巡り巡って(つまり、輪廻ですね)生まれ変わりを繰り返して(これは転生です)いるのだと思います。

ですから、私の死後の概念の中に仏教の言う地獄のようなものはないのです。

子供の頃、よく母親に「おてんと様はちゃんと見てますよ」と言われたものです。見られていても恥ずかしくない生き方、(時々恥ずかしくなりますが)これを心掛けて残りの時間を歩みたいと思います。

簡単に書きましたが、これが私の死生観です。

以上お読みいただきありがとうございました。
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