わたしは宗教三世です。
うまれたときから
宗教ときくと、みなさんはどんなものを想像するでしょうか。
仏教?キリスト教?イスラム教?
仏壇?協会?
お盆にクリスマス、最近だとハロウィンやイースターも?
日本には宗教の自由があります。そして沢山の宗教行事が、商業として自然とライフスタイルに組み込まれているんじゃないかと思います。
わたしには、それがありません。
生まれた時からわたしは、両親の意向で、とある宗教に加入させられていました。
わたしには周囲の他の子には許されているいくつかのことが禁止されていました。
神社で遊ぶ、お参りをする、おみくじをひく、お守りを買う、などです。
(でも今思えばクリスマスだけはなぜか例外だった、宗教行事というより子供たちを喜ばせるためのイベントという認識でやってくれていたらしい。誕生日も普通にお祝いしてくれた。)
ずっと疑問でした。なんでそれをしたらいけないのか、そこに行ってはいけないのか?しかしそんな疑問を口にすると両親は口を揃えてこう言いました。
「あなたが今こうしていられるのは○○と一緒に祈ってくれたみんなのおかげなんだよ、感謝を忘れてはいけない、そんな罰当たりなことを言ってはいけない。」
幼いわたしは全然納得できなかったけれど、抵抗する手段などありません。
わたしは「いい子」だったから、言いつけを守り、朝晩供物をして手を合わせて言葉を唱えました。
何かお願いごとや、思い悩むことがあるときも同様にしました。その言葉を唱えていれば確かに、時間はあっという間に過ぎ去りました。でも、意味はさっぱりわかりませんでした。
小学生くらいまでは、月に一回ほど集会のようなものに連れていかれたりもしました。大して仲良くもない同年代の子供たちと、よくわからない歌をうたったり、お話を聞いたり、朗読させられたりしました。
そんな様子を見る親たちは、とても誇らしげで、満足そうでした。
わたしは、よくわからなかったけどこれが親的正解なのだろう、と子供心に思っていました。
信者の系譜
母は祖母の代からの筋金入りですが、父は学生時代に自ら入信を決めたのだといいます。
両親共それぞれ、なかなかに壮絶な苦労をしてきた人です。そしてその救いを、宗教に求めてきた人でした。
それはまあ良い。勝手にすれば良い。
だって日本には宗教の自由があるんだから。
人に迷惑さえかけなければ、まあ何を信じてても良いんじゃない?くらいにわたしは思っていました。
でも、わたし(と弟)もそれに入れる必要はなかったよな、と思春期頃からだんだんとそう思い始めました。
だって親に言われた通りにどんなにお祈りをしても、飼っていた大好きな犬は死んでしまったし、いじめはなくならなかったし、一緒の高校に行きたかった幼馴染だけ落ちて離れ離れになったりしました。
お父さんお母さんが言ったからあんなにお祈りしたのに、全然叶わないじゃん!なんで?
泣きながら問いただしたけれど、寿命とか運命とか言われて終わり、よくわかりませんでした。
両親のことは嫌いになれない、いやむしろ好きです。一生懸命愛情深く育ててくれて、いじめのときも支えてくれて、とても感謝しています。
それへの入会もきっと、良かれと思ってしたことなのはわかっています。
でも、子供は全く別人格の一個人だということを、わたしの両親はすっかり忘れているんじゃないだろうか?物心つく前から入れられて、よくわからない話を説かれて、手を合わせて言葉を唱えさせられて?
これってもしかしなくても"洗脳"じゃない?
両親が求める通りの「いい子」だったわたしもついに、そんな疑惑を抱き始めました。
全部○○のおかげ
先日書いた通り、わたしは万年いじめられっ子でした。
特に酷かった高校三年生のときも、両親はそれに救いを求めるようにとアドバイスしてきました。
言葉を唱えていると確かに一瞬気は紛れるけれど、改善するどころかいじめはどんどん酷くなる。模試の成績もどんどん悪くなる。これは一体なんのためにやってるの?気晴らし?
やめたい、やめたい、やめたい。ぜんぶ。
でもその時のわたしは、もう駄目だと不登校になるという選択をするより、休んだら負けだ!そんなの悔しい!という気持ちの方が優っていたので、意地でも這ってでも、学校に行き続けました。
そして受験もちゃんと第一志望の大学に合格しました。
親も決して全く褒めてくれなかったわけではないんです。合格発表のときはわたしよりも泣いて喜んでくれたし、つらい中よく耐えた、とは言ってくれました。でもその次の言葉で、わたしの気持ちはぐしゃぐしゃになりました。
この合格はあなたの努力だけで掴んだものじゃないの、あなたの合格やいじめへの勝利を祈ってくれた、○○やみんなのおかげだということを忘れないで。
謙虚に周囲への感謝を忘れるなというのはわからなくもないけれど、でもその周囲は今回わたしを全然助けてくれなかったし、例の○○も全然効いた気がしてないし。何を言ってるんだろう?
どうして、「"あなたが"がんばったからだね、おめでとう!」って言ってくれないんだろう?
思えばわたしの自尊心は、いじめだけでなく宗教によっても蝕まれていっていたように思います。
かなしい、かなしい、かなしい。
いじめられてボロボロになりながら学校に行って、それでも第一志望に受かったんだよ?
もっと"わたしの努力"を認めてよ、褒めてよ。
ぜんぶぜんぶ"宗教のおかげ"なんかにしないでよ。
わたしはこうして、その宗教への不信感を募らせていきました。
籠を出た鳥
大学進学を機に上京して実家を離れました。
キリスト教系の女子大だったので(その宗教に関連する大学もあったけれど、進学についてはとにかくあなたのやりたいことができるところを!とありがたいことに特に制限されなかった)、そこでわたしは初めてそれ以外の宗教に触れることになります。
やっぱりキリスト教信者の子は多く、日曜日に教会に行く子もいました。
キリスト教の授業もあったので、礼拝に何度か参加してレポートを書かなければいけないのですが、礼拝自体は構内の教会で毎日行われており、それに毎日参加しているという子もいました。
宗教は「信じてないけどやらなきゃいけないもの」だった私にとって、同い年の子でも、自発的に宗教活動をする子もいるのか!そして誰も無理強いしてこない、こんな宗教もあるのか!とカルチャーショックを受けました。
かくいうわたしは実家を離れてから、帰省した時に両親の機嫌を損ねないようにお祈りの習慣の言いつけを守るくらいで、普段の生活ではすっかり宗教のことなんて忘れていました。
いくつかの道具を一式持たされたてはいましたが、荷物の奥底にしまったまま一度も開けませんでした。
周囲の友人にも言っていなかったし、既にたいして信仰心もありませんでした。
他のみんなはもうちゃんと自分が信じるものを自分で決めているんだ、偉いなあと思いました。
同時に、わたしはきっとそれをやめることはできないのだろう、あんなに信仰心が厚い両親にそれをやめたいなどと口にしたらきっと縁を切られるだろう、と漠然とそう思っていました。
人生の足枷
そんな不安が確信に変わったのは、大学生活も終わりに近づいた頃でした。
大学の友人のお姉さんの婚約者に祖母が探偵をつけたところ、婚約者のご家族がうちと同じ宗教の系譜だとわかり、周囲が圧力をかけて破談にさせたという恐ろしい話が飛び込んできたのです。
わたしも、もしこのままでいたら、将来好きな人と結ばれないのだろうか?と漠然とした不安に襲われました。
もうすぐわたしも社会人になる。今こそ、辞めたいと言う時なのではないだろうか。
年末の帰省の時に、勇気を振り絞って、母にそれとなく話を切り出しました。
「ねえ、わたしそろそろ、アレ、辞めてもいいかな。
なんかちょっと、こわいし…世間の評判も、悪いみたいだし…(←正直な気持ちだったけど、今思えばここが余計だった)」
その時の母の取り乱し様は凄まじいものでした。
「なんでそんなこと言うの?!」
「ぜんぜん大切さがわかってない!」
「私達家族がどれだけ助けられたと思ってるの!」
「世間の評判なんて間違ってる!馬鹿にするのもいい加減にしなさい!」
今思えばわたしのアプローチの仕方も相当悪かったのだけど、生まれて初めて、普段物静かな母親にこんなに罵られて、わたしもすっかり気が動転してしまいました。泣きながら反論もしたけれど、逆上した母親を目の前にするとどんどん何も言えなくなっていきました。
ああ、わたしはもうこの先、親を捨てない限り、この宗教から逃れられないんだと思いました。
でもさすがに、まだ未熟なわたしにとっては究極の選択すぎました。
とにかく今はもう、諦めよう…母に謝って、その場をやり過ごしました。
これからはもっと慎重に、友達にも宗教のことは隠し通さなければ…離れていかれてしまうかもしれないから。
でも結婚となったらそうもいかないだろうな…将来できるかもしれないだいすきなひととも、わたしは結婚できないかもしれないんだな。
わたしの人生は、わたしのものではなかったのかもしれない。
そう思うと虚しくてたまりませんでした。
"良かれと思って"両親が入信させた宗教は、わたしにとっては最早人生の足枷にさえ感じられました。
操り人形?
両親は、選挙前になるとより信仰心が強まり、わたしに「最近お祈りはしてるか」等宗教の話を持ちかけてくる傾向にありました。社会人になってもそれはあまり変わりませんでした。
ある日、父が出張のため上京しわたしの家に泊まった時にも、そうされました。
母親にあれだけ打ちのめされたものの、猛烈に腹が立ったわたしは再び、今度は父相手に話を切り出すことにしました。
「そういう(勧誘)の、いい加減やめてほしい。選挙だってわたしはわたしの考えたところに入れる。わたしにだってそれくらいの意思はある。馬鹿にしないでほしい。ほんとはもう宗教自体辞めたい。
あと、●●(弟)ももうすぐ二十歳になるけど、わたしみたいなことしないであげてほしい。」
父は冷静で、母のように逆上はしなかったものの、代わりに、なんで?どうしてそう思った?と聞いてきたので、そのまんまの意味だ!と返してふて寝しました。
その時は、ついに言ってやった!やってやった!と高揚していたのですが、どうやら父にもあまり響いていなかったようでした。
朝起きるとその宗教の本が、机にそっと置かれていたので。
運命さえ阻むもの
そんなこんなでずっと、なんとなく我が家のタブーとしてきたこの宗教を、婚約を機にようやく退会することになりました。
理由はわたしの信仰心がすっかりなくなっていることももちろんですが、婚約者がその宗教にとても抵抗がある人だったからというのが一番大きいです。
彼と付き合って一年ほど経った頃、何かの神社に立ち寄ったときに彼が初詣などの思い出を話してくれたのですが、わたしには当然そんなエピソードはなく、それを突っ込まれました。
いよいよ隠せなくなり、「わたしがそういうエピソードを持っていないのは、親がとある宗教をやっているから。わたしも信仰心はないが入れられている。」と告げたとき、「…ちょっと色々考えさせてほしい」と言われ、一度別れそうになったことがあります。
生まれたときから勝手に入れられたそれのせいで、なんでわたしは好きな人と一緒にいられなくなってしまうのか?と、彼に会える次の週末がくるまで、一週間悲しさと不安で毎日涙が止まりませんでした。
彼も散々悩んだようでしたが、それでも最終的にわたしと一緒に居続ける道を選んでくれました。
「正直その宗教への嫌悪感は消せない、でもそれが原因で君との別れを考えるのはやっぱりおかしいと思った。君自身も信仰心がなく、ひとりでどうしようかと悩んでいたのに、心細い思いをさせて申し訳ない。
でも信仰心がないのなら、君のためにもご両親のためにも、きちんと辞めてけじめをつけるべきだと思うよ。今じゃなくても良いから。
だいすきなひとが、宗教のことを話しても逃げないでいてくれた。これからも一緒に居られる!そのことにどれだけ救われたかわかりません。
わたしも、いつかその誠意にちゃんと答えなければ。
しかしなかなか切り出す勇気が出ないまま、二年の月日が経ってしまいました。その頃にはもう、わたしと彼は結婚を意識するようになっていました。
もし彼が宗教を気にしない人だったら、親との関係悪化を恐れて、猜疑心に苛まれながらも帰省した時にだけ祈るようなことを、きっと今でも続けていたと思います。
しかし彼はそれを良しとしませんでした。
「君とは結婚を意識して付き合っている。不器用だけど真っ直ぐな子だから、きっとご両親も悪い人ではないと思う。
でも俺は自分も、俺側の家族も、その宗教に侵食されたくない。君に信仰心がないのなら尚更、辞めるべきだ。
良かれと思って入れたのだと思うと君は言うけど、その論理で行くと僕たちの子どもまでそれに勝手に入れられてしまうかもしれない。君は嫌じゃない?俺は絶対に嫌だよ。NOを言うなら今しかない。
君も親御さんも、未だに依存してるしされてる。互いに自立するためにもそれはやめるべきだと俺は思うんだ。
それくらいで縁を切るような親ならそれまでだ!くらいに思え。そうしないと君も親御さんもいつまでも自立できない。もし本当にそう(縁切)なったとしても、もう俺がいるんだから大丈夫だ、ひとりじゃない。逃げるのは終わりにしてちゃんとぶつかってこい!」
もうひとりじゃないというのは確かに心強かったのですが、同時に「いやだって自分の親だとまた勝手が全然違うんすよ、縁を切るとか簡単に言わないでよ」とも、思ってしまいました。
辞めるためには如何せん
なんて言えば角が立たず、親とも円満に辞められるんだろう?二度失敗しているわたしには、なかなか想像がつきませんでした。
でも今はブログやツイッターも情報源は沢山ある。もしかしたら同じような状況の人、いるんじゃない?参考にしてみよう!とまずは片っ端から検索することにしました。
しかし出てくるのは「宗教辞めるのでもめて縁を切った/切られた」系の過激な記事ばかり。
いやー、親自体は嫌いじゃないからこそ悩んでました!みたいなやつはないの?と探し回りましたが、全然見つかりません。
どんどん不安だけが募っていきます。
やっぱり、宗教をやめるというのは、やっぱり縁を切られる可能性があるほどの重大なことなんだ。怖い、どうしよう、やめてしまおうか…
でも今度こそ本当に辞めないと、彼との結婚に響く。ずっと待ってくれた彼に申し訳ない。わたしにはもう後がないのに!どうすれば…
迷いに迷った末、わたしは、同様に宗教三世である母方のイトコに相談することにしました。
救いの手はすぐそばに
イトコに連絡をとるのは久しぶりでした。決して仲が悪いわけではないけれど、いきなりこんなセンシティブな話題を持ちかけていいんだろうか…と少し悩みました。
でもわたしには迷っている余裕なんてありませんでした。
婚約したいと思っている人が、わたしに信仰心がないのは認めてくれたものの、結婚してその宗教の影響を受けるのは避けたいからなあなあで続けるのは辞めてくれと言う…なので婚約を機に辞めようと思うが、過去に辞めたいと話したら逆上されたり諭されたりして失敗している…イトコたちは、結婚する時宗教のことは相手にどう説明したのか、もうやめたりしたのか…といった長文メールを送りつけました。
最初こそ驚きつつも、イトコは親身に相談に乗ってくれました。
「宗教のことは、うちでもタブー視されている。正直自分たち兄弟も、生まれてすぐ入れられたけど、信仰心はみんな全くない。
そのうち一人はやめたけど、縁こそ切らなかったもののその時すっごく揉めていたし親も悲しそうだったのを間近で見てしまったから、自分はそのままなあなあで続けている。周囲にも言わなきゃバレないし、自分のところは結婚相手も偶然そのことをそんなに気にしない人だったから、うまくやり過ごすことも手段の一つではあると思ってる。でもしゃけちゃんの場合、婚約者の彼が嫌がっているならけじめをつけないとね。
今後のために彼の名前は出さず、あくまでしゃけちゃん自身の意思であることと、親への感謝は忘れてないよってことをちゃんと伝えよう。おじさんおばさん(わたしの両親)が良い人なのは自分もよく知ってる。きっとわかってくれる、大丈夫!」
同じ立場の人に、ようやく出会えた嬉しさと、建設的なアドバイス!ニュートラルな立場での冷静な意見をもらえて涙が出ました。
悩んでいたのはわたしだけじゃなかったらしい。その事実も心強く思いました。
そして意外なところに、もう一人味方がいることもわかりました。
わたしの唯一の兄弟である、弟です。
弟は大学進学とともに上京して一人暮らしをしています。定期的に集まるようなことはないものの、帰省も予定を合わせて一緒にするし、仲は悪くないと思うのですが、イトコと同様、今まで深い話はしたことがありませんでした。
でも、親に話して上手くいかず縁を切られたりする前に、念のため彼には一度話しておかないければ。
婚約を機に宗教辞めようと思ってる。もし縁を切られたらごめんね。
すると意外な言葉が返ってきました。
「姉ちゃんが大学生の時、辞めたいって母さんと喧嘩してたの、俺実は見てた。俺も信仰心はないながらなあなあでいけばいいかと思ってたけど、正直あれ見て引いちゃった。
あれ見ちゃうと縁切られないよ大丈夫と言える自信はないけど、せっかくの婚約がこれに邪魔されるのはおかしいと思う。がんばって。」
我が弟ながらなんて人間出来てるの!と感動してしまいました(←ブラコン)。
やっぱりわたしは、ひとりじゃなかった。
きっと大丈夫だ。
決戦の時
年末の帰省の際、まずは寝ようとしていた母を引き止めて話を切り出しました(父はうたた寝してしまっていたので別々に話をしました)。
二つ報告があります。
①結婚したいと思っている人がいます。
②宗教辞めます。
なお②は決定事項です、誰かに言われたとかでなくわたし自身の意志です。
母は逆上こそしなかったものの、報告①に対しておめでとうも言えないくらい、やっぱり報告②に取り乱していました。
無理もないかもしれません。両親にこんなにハッキリ反旗を翻したことなんて今までなかったのだから。
「どうして、なんで、いつから?誰かに何か言われたの?みんなで救われてきたのに、そんなかなしいこと言わないで。」
カッとなりそうだったけど、喉元まで出かかった涙も一緒にグッとこらえて、ゆっくり説明しました。
なんでも何も、ずっと考えていたことだよ、でもより意識したのは大学に進学してから。色々考えて、わたし自身の意思でそれなしで生きていくって決めたよ。
父さん母さんには一生懸命育ててもらえたこと本当に感謝してるけど、もうわたしは別人格のひとりの人間なの。それをわかってほしい。
確かに未だに心配ばかりかけているから説得力はないかもしれないけど、それがなくてももうわたしは彼がいるから大丈夫なんだよ。そういう人を、ちゃんと見つけたんだよ。
うたた寝から覚めた父にも、個別に同様に話をしました。母と同じ反応でしたが、同じく丁寧に報告と説明をしました。
ふたりとも少し不服そうではありましたが、わかってはもらえたようでした。その証拠に、もう朝晩のお祈りに呼ばれなくなったので。
遅く来すぎたわたしの反抗期は、個人的には満足できるかたちで幕を閉じました。
わたしは宗教三世でした。
そんなこんなで、20数年越しに、わたしはようやく宗教の呪縛から解かれました。
結婚の準備も、着々と進んでいます(結婚することに関してはとても嬉しかったようで、とても協力してくれます)。
未だにわたしが精神的に不安定に陥ると、
「信仰に救いを求めることはもうないのか(他意はなく純粋に良いものと信じていてそれを勧めているだけというスタンスなのがまたタチ悪いんですが本人に自覚はないのであろう)」
と言ってくることもありますが、わたしにはもう要らないの、と跳ね除けることができるようになりました。
攻防戦が完全に終わったわけではないのが現状ですが、強い意志を持って今後も頑張ります。
この文章が、親のことが嫌いなわけじゃない、でも宗教観は相容れない…と、わたしと同じように悩む宗教○世の人たちに、悩んでいるのはあなただけじゃないということが届けば嬉しいです。
※なお、この文章はあくまで個人の見解です。
わたしにはその宗教が"合わなかった"というだけの話です。
両親は実際にそれを信じることで救われているようですし、実際その宗教を通じて出会った人々も皆それぞれ苦労を抱えながらも信仰心を支えにして乗り切ろうと頑張っている真摯な方ばかりでしたので、宗教自体の批判をしたいわけではありません。
最初にも述べましたが、それを信じることで元気になれて、他人に押し売ったり迷惑かけないのならば、まあ良いのでは?とわたしは思っています。
ただ、子どもを巻き込まないでほしかった、それを振り切るまでにこんなことがあって、どういうふうに対応したという事例のつもりです。悪しからず。
20180524(休職四日目:一日一件書こうと思ってたけど、さすがにこのトピックは時間かかっちゃいました、悔しいな。)
しゃけ
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