銀座の歴史に柳あり
かつて、『柳』は銀座のシンボルであった。
今も銀座の街を歩けば街路樹として柳の木を見る事が出来る。
だが、過去には衰退や復活、紆余曲折様々な歴史を経てようやく中央区の木としてまた新たにシンボルへと返り咲くのだった。
1869年(明治2)、新両替町から「銀座」の名称となった5年後、銀座通りに日本初の街路樹が植えられた。
始めから柳が植えられたのではなく、最初に植えられたのは松・カエデ・桜だった。
だが、数年の内に銀座の土地では地下水位が高かったことが影響してほとんどの街路樹が枯れてしまった。
そこで、水分の土壌を好む『柳』が植え替えられ始め、1884年(明治17)には銀座の街路樹がほとんど柳となった。
その後、銀座通りの車道の拡幅を理由に柳の撤去、加えて関東大震災の影響で柳は焼失してしまい、銀座は柳を失ってしまった。
焼失後、街路樹は一部イチョウの木が植えられる等して『柳』は姿を消してしまった。
この頃、「東京行進曲」の流行により、朝日新聞社や有志などの寄贈により再び『柳』が銀座の街路樹として植樹された。
以下、「東京行進曲」の一説
“昔恋しい銀座の柳 仇な年増を誰が知ろ
ジャズで踊って リキュルで更けて
空けりゃダンサーの涙雨“
歌い出し冒頭から銀座の柳に思いを浮かべていることが見て取れる。
当時、流行したとあれば銀座に再び『柳』が戻ってきたことも頷ける。
しかし、『柳』の不運はまだ続くのであった。
第二次世界大戦の戦火によって、再び焼失してしまい『柳』の数がまた減ってしまうのだった。
こうして戦渦を免れた数少なくい『柳』だったが、少しずつ枯死し始めた。
オリンピック開催が決定し、ビル建設などによる環境の変化により、柳の枯死が目立ってきたこと、オリンピックから数年後の銀座通りの改修工事によって『柳』は撤去されてしまった。
けれど、撤去された『柳』は日野市の苗圃、日本各地に銀座の柳として移植され歴史はかたちを残すこととなる。
こうして残った柳だったが、数年後には数が3本だけとなり危機感を感じた銀座の有志が枝を持ち帰り、接ぎ木することで二世柳を復活させることに成功。
こうして甦った二世柳は御門通りの角(銀座8丁目)に植樹されたことを皮切りに、銀座通り(銀座8丁目)や柳通り(銀座6丁目)、銀座中学校・泰明小学校に続々と植樹、更に今度は全国に寄贈した。
そんな銀座の柳も今では四世まで生まれ、受け継がれている。
そして1987年(昭和62)、銀座の柳は元は長野の安曇野(長野)から来たものであったことが新聞の記事を通して広まり、当時の長野県穂高町長から中央区に『柳』が100本寄贈された。
その返礼として二世柳を安曇野に寄贈、こうして『柳』は長い年月を経て、二世柳というかたちで長野へ里帰りしたのであった。
同年、中央区は『柳』区の木として制定。
様々なストーリーを持つ銀座の『柳』は今では、西銀座通りが東京都のシンボルロードに指定されたことを記念して2006年より毎年5月5日に銀座柳まつりとして冠の付く存在となった。
その他にも、今日では銀座エリアでは飲食店をはじめ画廊やクラブ、雀荘等の様々なジャンルで『柳』という名前に因んだお店が存在し、銀座1丁目には柳通りまでできている。
『柳』は、銀座の発展と共に苦労し、生き長らえた木と言っても過言ではない存在である。
これからの更なる歴史を刻む銀座の街とそこに存在する『柳』を大切にし、銀座のシンボルとして再認識して頂ければと思う。
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