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なぜあの人は「動きがとろい」のか?
仕事をしていると「動きがとろい」と言われる人がいる。
別の言い方では「遅い」「のろい」「にぶい」という表現もある。
”とろい” とは名古屋弁であるらしいが、それはそれとして、いずれにせよ良い印象を受ける言葉でないことは確かだ。
仕事において「動きがとろい」と言われてしまうのは、一言で言えばアクションが遅いということが挙げられる。周りから「あれやった?」と聞かれて「・・・あ、まだです」というようなやり取りが日常で幾度も起きる。
また、文字通り体を動かす行為の1つ1つが遅いことも挙げられる。物を運んだり、書類を書くという動作1つとっても、周囲から見ればモタモタしているように見えてしまう。
そして、思考が遅いのも特徴である。思考が遅いので、会話のリレーが続かなかったり、意見を求めても「えっと・・・」と待てど言葉が出てこないこともある。
このような「動きがとろい」という人を相手にしているとイライラしてくるし、直接関わらなくてもイライラしてしまう。
・・・と、何だか辛辣なことばかり書いてきたが、ここまではあくまで「動きがとろい」という人と日常で関わっている側の視点とご理解いただきたい。
しかし、そこで「動きがとろい」という人をフォローするつもりはない。
何かしらの精神的な疾患を抱えているとか、「動きがとろい」という人だって良いところがあるはずとか、言いたいわけでもない。
また、「動きがとろい」という人がそれを自覚しているのか、していないのかも分からない。そんなの本人しか分からないし、仮に自覚していたとしても、その苦しみを取り除くことはできない。
何だか突き放すような言い方だが、介護事業を営んでいる立場として、このような「動きがとろい」という職員は、どの職場にも必ず1人以上は存在してしまうということを知っている。
それは上から目線の物言いではなく、ある意味で自然現象であり、ある意味で「仕方ない」という諦めの境地とも言える。
このような「動きがとろい」と呼ばれる人たちと関わっていて気づいたことは、ある1つの共通点があることだ。
それは、何かしらの疾患や障害の有無などの話とは違う。
あえて言えば「動きがとろい」という以前に「自分で考えて行動する」ということが欠如していることだ。それは「自分で選択しようとしない」ということでもある。
私たちは「これからどうしようかな?」という選択を、1日の中で脳内で幾度も考えて行動する。とある研究では、1日の選択回数は1人あたり35,000回に及ぶらしい。
しかし、「動きがとろい」という人は、誰かが選択してくれることを待っている節がある。あるいは、誰かが選択するための材料を提示してくれると思っている節もある。
幼少期の教育もあるのだろうが、情報化社会という現代の環境が弊害として起きた結果でもあると思う。
スマホがあれば色々調べられ、答えっぽいものが入手できる時代だ。何か欲しいと思うものがあっても、自分で考えるよりも通販レビューを見るのが癖になってしまっている。
自分がやりたいことがあっても、すでにやっている人や成功している人たちの動画やSNSを見て満足してしまうこともあるだろう。
このような恵まれすぎている時代において、「自分で考えて行動する」という人間としての生命力が低下するのは仕方ないのかもしれない。
その結果として「動きがとろい」という人が量産されてしまうのも、仕方ないのかもしれない。実際、「動きがとろい」という人は増えているような気がする(あくまで個人の印象として)。
何が言いたいのかと言うと、身の回りに「動きがとろい」という人を見かけたとして、その当人にイライラするのは少し違うのかもしれない、ということだ。
もしかしたら、イライラしている自分だって、ある側面においては考えて行動するということを放棄しているかもしれない。誰かから「動きがとろい」と思われているかもしれない。
別に「動きがとろい」という人にイライラすることはあっても良いと思う。
それは主観ばかりで物事を見てしまう間の性なので仕方ない話だ。無理に寛容になる必要もない。
しかし、誰かの動きのとろさを指摘している自分だって、便利すぎる情報化社会の渦中にいるわけだから、どんどん動きがとろくなっている可能性だってある。そのことを忘れてはいけない。
ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。