自己肯定感とは「間違いを受け入れる」ことで得られる
やたらと自己肯定感を重視する世の中。
でも、自己肯定感が何だかよく分からない。
そのまま言葉だけが独り歩きしている。
そうして自己肯定感が低いと悩む人が多い。
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自己肯定感が何か分からないけれど、
その前に自分と向き合う必要はあると思う。
自分という存在も見ないくせに
自分を肯定することなんてできない。
ゆえに
自己肯定感をもつためには
自分と向き合うというプロセスが必要だろう。
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自分と向き合うとは、自己認識である。
自分の現状を正直に素直に、客観的に把握する。
でも、自己認識とはどうすればいいのか?
手っ取り早い方法は「自分の間違いを受け入れる」。
自分の間違いには誰もが目をそむけたくなる。
言い訳したくなるし、自分の正当性を主張したくなる。
ここで、そんな態度をとろうとする自分に気づく。
それが自己認識の一歩である。
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別に間違いを受け入れなくても生きてはいける。
どんどん言い訳し、自分は正しいと喧伝すればいい。
でも、そこで自己認識は終了する。
「間違いを受け入れない自分」という診断で終わる。
どこか引っかかったままの自分で余生を送る。
それは次第に肥大すると自己否定になる。
結果、自己肯定感は得られなくなる。
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実際、間違いを指摘されて言い訳したり
他人のせいにする人は自己肯定感が低い。
これはもちろん、主観である。
でも、間違いを受け入れない人は不安そうだ。
いつもいつも自分を良く見せようと痛々しい。
まるで同じ場所で大声で助けを求めているようだ。
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一方、無事に間違いを受け入れられた人は前進できる。
自分の現状を客観的に見つめて疑問に思い、
間違っていた事実に耐えて、
未来に向けて潔く軌道修正できる喜びを得る。
それは苦しいかもしれないけれど、
得るものはとてもとても多い。
何を得たかは後から気づくこともあるし、
知らず知らずに活きていることもある。
でも、そんな自分に気づけたとき、自己認識できたとき
それがいわゆる自己肯定感というものだと思う。
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別に痛い思いをすしろという意味ではない。
自己認識するには痛みは必ずあるということだ。
ならば、間違いを受け入れるということは必然となる。
間違いを受け入れるほどの自己認識はない。
苦しいし葛藤はあるけれど、そんなものはなんだ。
本当の意味での自己肯定感が欲しいならば、
「間違っていました」と認めてしまって、
「今すぐ改善します」と行動する。
これをずっと繰り返すだけ。それだけでいい。
その姿は清々しい。周囲も見ていて印象は良い。
何より自分自身がタフネスになっていく。
タフネスになれば生きる意欲も湧き笑顔も増える。
その姿は自分だけでなく、周囲にも自己肯定感を与える。
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――― 今日はどんな失敗をしたかを振り返ろう。
――― どんな間違いをしたか思い出そう。
――― 言い訳したり自己主張した自分を見つめよう。
それこそが自己肯定感とやらを得るための第一ステップになる。
こんなことを書いている私だって間違いばかり。
でも、すぐに「ごめん、間違っていた」と言葉にする。
他者の前で間違いを認めると撤回できない。
だから、あとは修正や改善するしかない。
呆れられることもあるけれど、それで信用をなくしたことはない。
そんなものだ。間違いを受け入れることなんて・・・。
ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。