高齢化社会の問題は「介護している人たちを守る」まで至っていないこと
高齢化社会の問題は何か?
それは、単独では生活しきれない高齢者が増えていること――― ではない。
そのような高齢者を支援する資源が不足していることだ。
資源とは「ヒト・モノ・カネ」のことである。福祉とは言え、資源の考え方はビジネスと同じだ。
つまり、高齢化社会という問題は「ヒト・モノ・カネ」の不足である。
言い換えると、高齢者の生活を守るためには「ヒト・モノ・カネ」が必要であるということだ。
では、なぜ高齢者の生活を守るために「ヒト・モノ・カネ」が必要なのか?
それは、「介護している人たちを守る」ためだ。
単独では生活しきれない高齢者を守るのは、大抵の場合は家族である。
分かりやすく言えば、すでに成人した子供が親の介護をするということだ。
昨今では孫世代も介護をするという話は珍しくない。
しかし、子供と言ってもすでに社会人であって日々の仕事に追われている。家族を養うため、何より自身の人生を楽しむために生きている。孫世代だって未来に向けて学業に精進し、青春を謳歌することが役割だ。
このような個々の人生や役割を介護という時間に削られることは、社会的に大きな機会損失になっていることも高齢化社会の問題の1つである。
だからこそ、このような「介護している人たちを守る」ために、色々な介護サービスや高齢者施設が存在し、行政や医療・地域連携などにより高齢者一人一人の生活を支援するための社会インフラが構築されてきた。
しかし、現行の介護サービスや社会インフラの見るとお分かりのとおり、その多くは「高齢者の生活を守る」ということに特化しているが、「介護している人たちを守る」までには至っていない。
また、高齢者の自尊心は守れるかもしれないが、介護している人たちの自尊心は守られているのだろうか?
高齢者の心身のケアに手を差し伸べられているが、介護している人たちのケアに手を差し伸べられているのだろうか?
「介護している人たちを守る」まで至っていないから、介護離職やヤングケアラーといった言葉を耳にする機会が増えているのだと思われる。
「高齢者の生活を守る」ということは大切だが、その起点は「介護している人たちを守る」ということではないのか?
高齢化社会の問題は、この「介護している人たちを守る」が起点であることに気づいていないことにあると思う。これは行政批判ではなく、高齢化という問題に対する社会の認知がズレていることである。
――― 高齢者介護という仕事をしている立場として、このような記事を書くのはお門違いなのかもしれない。なぜならば「高齢者よりも若い人たちにヒト・モノ・カネを費やすべし」と言っているのと同じだからだ。
介護を通じて高齢者に笑顔であってもらいたい。少しでも心身を穏やかにできる生活支援をしたい。・・・でも、それで「介護している人たちを守る」は実現できているのか? と疑問に思うことはある。
たまにこのような禅問答のようなことも考えてしまう。それをカタチにしようと記事にしてみたわけだが、読み直すとまだアウトプットしきれていないことが分かる。
まぁ、介護の仕事を通じて、ゆっくり考えるとするか。
ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。