すべてに救いの手を差し伸べようとするから資源が枯渇しているという現実
日本が抱えている大きな問題の1つに「少子高齢化」がある。別に社会的不安を与えたいわけでないが、少子高齢化の行き着く先は国の消失である。
それを防ぐために国も動いている。また、ヤングケアラーや介護離職といった少子高齢化のダメージを受けている人たちを守るためにも動いている。
しかし、いつも思うのが「少子」よりも「高齢」のほうに社会的資源を配分しすぎではないかという話が出る。
介護の事業を営んでいる私もそう思う。正直言って高齢者に手厚くしすぎだと思うことすらある。一方、子供のほうに社会的資源が行き届いていないように見受けられる。
とは言え、何も国の政策を批判しているわけではない。
単純に母数の問題である。現状において子供より高齢者のほうが多いから、社会的資源が高齢者に多く配分されるというだけの話だし、表面的にそのように見えるだけかもしれない。
しかし、この配分はあくまで”現状維持”のためのコストであって、社会全体の将来に向けた”投資”というコストではない。それが問題だと思う。
言ってしまえば、お金の使い方に問題があるということでもある。
少子高齢化という大きな問題だからピンかもしれないが、これを家庭のお財布事情で考えてみれば分かりやすいと思う。
私たちは通帳や財布の中身を見ては何を買うかを考える、悩む。なぜ考えたり悩むのかと言えば、通帳残高と財布の中の現金には限りがあるからだ。(注:ここではお金を借りるとかリボ払いとかいう話は除外する)
自分の手元にあるお金には限りがあるとき、私たちは「選択」をする。
なるべく安いコストで最大の満足を得られる商品を選ぼうとする。
あるいは、どんなに高くても何とか手に入れたいと思うものには、お金を惜しまないこともある。貯金をありったけ投入するという人もいる。
いずれにせよ、自ら選択して使ったお金は戻ってこない。だから、私たちは手元のお金を見ながら考え、悩み、そして選択する。
例えば、AとBと言う商品があって両方欲しいとしても、手元にあるお金ではそれを実現できない場合、どちらかを選択しなければいけない。あるいはAもBも両方買わないという選択もある。
また、AもBも価格が決まっているわけだから、手元にあるお金を見て、「Aに60%、Bには40%支払う」なんてことは不可能である。
そんな都合の良い話は存在しないし、売り手だってそんな販売をすることはしないだろう。
しかし、福祉という分野においては、このような優柔不断な選択がなされてしまう。「子どもたちにも、高齢者にも」みたいな感じだ。
それは憲法の言うところの「健康で文化的な最低限度の生活」というものが根本にあるからだろう。
この考え方は素晴らしいと思うが、それが過度になってしまうと「すべてに救いの手を差し伸べようとする」という話になってしまう。
すべてに救いの手を差し伸べようとすることも高尚な考えだが、それを実現するためには力が必要である。それは資源(ヒト・モノ・カネ)である。
しかし、この資源だって、私たちが手元にあるお金と一緒だ。つまり、限りがある。ジャブジャブ使うわけにはいかない。枯渇してしまう。
だからこそ、福祉という分野においても「選択」することが必要なわけだ。
残酷な話であるが、少子高齢化においては「未来のための子どもに注力する」「時代を築いてきた高齢者を最期まで支援する」のいずれかを選択するということである。
介護事業を営んでいる立場だからこそ、この「選択」はこれから重要になってくると思う。もしも「子どものため」を選択して、介護分野がどんどん衰退していったとしても、それもまた自然の摂理というものだろう。
もちろん、理想は「子どもも、高齢者も」である。しかし、現時点においてはそれが実現できる見込みはない。だからこそ、思いきりどちらかに舵取りをして、イチから社会基盤を構築し直す必要があると思う。
――― 現代社会を否定しているわけでない。しかし、「どちらも」「あれもこれも」ばかりとしていると、どちらも共倒れになってしまうのは誰もが想像に難くないだろう。
まずは財布の中身を見て、自分で買える範囲の物を買うか、将来に備えて買物を我慢するなど、個人が「選択」する思考を身につけることとしよう。
ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。
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