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”勝ち負け”なんてこだわらなくても、人生は謳歌できる

他人と比較して、少しでも自分が優位であろうとする人がいる。

「自分のほうが知っている」
「自分のほうがもっとうまくできる」

「他の人よりも良い評価をもらえた」
「他の人よりも良い条件で働いている」

「あの人は、自分にだけ本音を言ってくれる」
「あの人は、自分にだけ特別な目線をくれる」

・・・このように「自分」の有能性をアピールしつつ、一方で「他人」よりも優れていることにも余念がない。

そのような生き方を否定するつもりもないし、承認欲求とやらを満たしたいのだろうと理解できなくもないので分かる。

しかし、「他人よりも優れている自分でなければならない」という生き方は疲れないかと思ってしまう。




そのような人たちを心配しているわけではないが、たまに「ナメられたら生きていけない」みたいな、いつの時代に生きているのだろうと思う人もいるので驚くことがある。

別に他人にナメられたところで生きていける。他人に馬鹿にされても、誤解されても、迷惑をかけても、理不尽な扱いをされても、生きていける。

ご飯だって美味しく食べられるし、漫画を見て笑えるし、映画を見て泣くこともできる。他人にどうこう思われても人生を楽しめる。

そこに他人との競争をわざわざ持ち込む必要なんてない。

――― 他人との競争とは、つまり”勝ち負け”のことである。

「他人よりも優れている自分でなければならない」というのは、「他人よりも勝っていなければいけない」「他人に負けることがあってはいけない」とも言い換えることができる。

しかし、他人に勝ったからと言って何だと言うのか?
他人に負けたからといって人生は終わりなのだろうか?

野生動物に囲まれたり、戦国時代であれば話は違うだろう。
国によっては紛争で生きるか死ぬかの生活を送っている人たちもいる。

しかし、他人と比較して勝った負けたと言っているような環境で生きている人たちは、誰かに勝っても武勲にならないし、負けても死ぬことはない。

勝ち負けなんてものにこだわらなくても、生きていけるのだ。




では、なぜ勝ち負けにこだわる人がいるのだろうか?

それは、社会構造が勝ち負けにこだわる仕組みになっているからだと思う。つまり、他人と比較しやすい世の中になっているということだ。

例えば、学校のテストなどが分かりやすい。(今も全国的にあるのか分からいが)中間テストなどで順位が掲示されるが、それを見て「〇〇は頭がいい」「△△は馬鹿なんだ」みたいな捉え方をする人は少なくない。

しかし、本来テストは競うものではない。テストは自分の現在の実力を計測するためにあるからテストなのだ。自分が分かっているところを確認し、分かっていないところを是正するためにある。そして自分を高めていく。

この思考をベースにしていると、社会人なっても自分が果たすべき目標を理解して、それを達成するための努力ができる。

また、試験と呼ばれるものだって「その学校に入って学べるレベルがあるのか」を確認するためのものであって、「合格」「不合格」というのは「あなたは素晴らしい」「お前は駄目」と言っているわけではない。

努力の末に合否が提示されると、そのような勝ち負け思考になってしまうのは仕方ないと思うが、合格であってもその先だって努力は必要だし、不合格においては「この門をくぐりたければ、もっと頑張ってくだだい」と言っているだけのことだ。

そこから「よし、何が間違っていたか検証しよう」と次に目を向けても、「そうか、自分の実力には合わないのか」と身を引くとしても、それは不合格という結果に対して「負け」と話ではない。




この手の話をすると、よく「勝ち組」「負け組」というワードが出る。

社会や世間では、この手の分類化(二極化)をしたがる。それは、人間のあり方を分類化したほうが楽だからだと思う。

しかし、特にこの多様化している現代においては、人間の生き方をパターン化することに何の意味があるのだろう。

そもそも「勝ち組」「負け組」というのは誰が決めているのだろう?

「ここからが勝ち組ですよ」と、WHOが定めているのだろうか?
「負け組は罰則がありますよ」と、法律で定められているのだろうか?

そんなことはないだろう。

しかし、誰が決めたのか分からない基準をもとに「勝ち組」「負け組」とか決めつけている人たちは少なくない。

介護事業を運営していても、介護という仕事を負け組みたいな考え方をしている人がいる。また、派遣形態のスタッフに意見を求めると「自分は派遣ですので・・・」と言いたいことを控える人もいる。

言いたいことは分かるが、介護現場で働いていただいていることには感謝の気持ちが第一である。それなのに、当人たちが誰が決めたのか分からない基準に惑わされて自分のあり方を決めつけてしまっているのを見ると、実力がちゃんと備わっているのに残念な気持ちになる。

私たちは「勝ち組」「負け組」とかいう無意味な基準から解放されたほうが良いと思う。そのためには、その根本たる”勝ち負け”思考に過度にこだわる癖から脱却したほうが良いだろう。




誤解なきように言うと、勝ち負けについて完全否定しているわけではない。単純に現代ではそこまで必要ではないと言いたいだけだ。

目標達成のプロセスとして「あの人を上回れば、自分が望むステージに行ける」といった意味で競い合うのは良いと思う。

しかし、誰が定めたのか分からない、あるいは自分の思い込みで決めた、追い詰めるような”勝ち負け” にこだわっても意味はない。

それでも、仕事などで日常で勝敗を定められてしまう環境にあるならば、それ以外のところでは勝ち負けに関係のない、世間から見ても自分から見ても全く無意味で、生産性なんて1つもない、公開した評価もゼロ、そんなグダグダな取り組みをすることをお勧めする。


――― 介護の仕事をしていると、勝ち負けに異常にこだわる高齢者はいる。
他人と比較して優位性を持とうとする人もいる。

その人たちの生き方を見ていると、ひどく苦しそうにも見える。

一方で、そのような人たちが、評価や勝ち負けなんてどうでもいいことに興じて笑顔でいるのを見ると何だか嬉しい気持ちになれる。

・・・と、そんなこともあり、長くなったが本記事のような考えをまとめた次第だ。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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