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注意や指導はただの情報に過ぎない

仕事をしていると注意や指導を受ける。

上司や先輩から注意されることもあれば、お客さんや関係者から指摘されることもある。そのため、新人や若い人だけでなく、ベテランだって中高年だって注意されたり指導を受ける。

誰だって注意されるのは嫌だし、そこそこの年齢やキャリアがあるのに指導を受けるのはプライドに障るだろう。しかし、そこは「言ってもらえるだけありがたい」と思ったほうが良い。

自分の間違いに自分で気づいたり、間違いを受け入れることは難しい。
そこで他人によって自分の間違いが客観的に見ることができる。

納得できないこともあるけれど、自分の振る舞いは他人がよく見ているものだ。そして大抵の場合、他人の注意や指導は的を得ている。だから、間違いと思ったら素直に受容するのが建設的である。 


 
そもそも、注意や指導というのはただの「情報」に過ぎない。

よく注意や指導というのは「気づき」を与えるもの、というスタンスがあるけれど、結局のところ「あなたはこうですよ」「ここが間違っていますよ」というのは情報である。

情報というのは基本的に受けてにとって価値があるものだ。そのため、注意や指導という「情報」を得た人が、それをどう解釈して活用するかは当人の問題である。

本やインターネットから得られた「情報」だって、それを活用する人としない人がいるだろう。

それと同様に、注意や指導という「情報」を提供されて何も変わらないならば、それは当人がその「情報」に価値がないと判断したに他ならない。

もちろん、注意や指導を素直に受け入れる人もいる。落ち込みながらも、納得できない気持ちがあっても、言われたことを「情報」として自分の中で咀嚼して成長につなげることができる。 


 
このように考えると、何度も注意や指導をしても一向に変わらない人に対してイライラするのはお門違いだと分かると思う。

そのような人たちは、他人から告げられた注意や指導という情報を、まるで興味のないチラシをゴミ箱に捨てるように扱うのだ。自分にとって必要ではないと思うのだから、聞く耳をもつこともなく、自分を変えようとしないのは当然である。

だから、「あいつは何度言っても理解しない!」「何度注意しても改善しない!!」などと憤るのは無意味なのだ。当人にとって注意や指導が意味をなすタイミングはあるかもしれないが、そのようなタイミングが訪れないことだって当然ある。

注意や指導する側にとっては腑に落ちないかもしれないが、他人を変えられないというのは結局こういうことだ。

――― 何だか投げやりな記事となったが、注意や指導をした後も当人が変わらないならば、注意や指導をして耳を傾けてくれるタイミングを待つしかない。

きっと「教育に時間がかかる」という言葉が意味するところは、こういうタイミング的な話もあるだろうから・・・。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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