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「生きているだけで十分」と言うけれど

お盆休みになると、介護施設は面会や入所見学が増える。運営している介護施設でもそれは同様であり、毎日のように面会と見学対応をしている。

「お忙しい中、すいません」と言われることもあるが、ご家族が面会にくると入居者(高齢者)はとても喜ぶ。面会が終わった後は心身の状態が目に見えて良くなる入居者もいるし、興奮して夜間に落ち着かなくなる方もいる。

それらは嬉しい気持ちからの反応であることから、施設および介護者としても嬉しい気持ちもになる。

一方、施設としても、普段はお見えにならないご家族と顔合わせして、日常の様子や課題点などを直接伝えることができる機会になる。

状態が落ちている入居者であれば、近い将来について打ち合わせしたり、何かあったときの緊急連絡先の再確認などもできる貴重なタイミングだ。

そのため、この時期の面会は、運営という立場としては他の予定を変更してでも可能な限り立ち会うようにしている。




しかし、嬉しいことばかりではない。
それは、入居者が認知症を有している場合だ。

認知症は、記憶障害、見当識障害、失語・失行・失認といった共通症状(中核症状)が大なり小なり生じる。

これらの症状が単体あるいは複合的に生じると、対面した相手が家族であっても「知らない人」「覚えていない」ということがある。

面会では、このような場面に遭遇する。

見ていて辛くなるのは、施設に入所している自分の親に会いに来たのに、本人から「この人は誰ですか?」「自分はこの人に会ったことがあるのか?」という反応をされるご家族がいることだ。

まるでドラマや小説の話のようだが、これは少なからずある。
何なら、自分の子供を覚えていないということもある。

いくらご家族が「ほら、●●だよ。久しぶり!」と名前を言っても、困惑する表情を浮かべたり、興味を示さず無口になることもある。

実の親が自分のことを覚えていない、名前を言っても認識できない、まるで興味も示さない・・・本来は楽しいはずの面会が一気に絶望感に包まれる。

それでもご家族の多くは「いつもお世話になっております」「大変だと思いますが、よろしくお願いします」と労いの言葉をかけていただける。

そのような真摯な態度が余計に、胸を締め付けられる気持ちになる。




「生きているだけで十分」という言葉がある。

しかし、自分にとって大切な人が、自分のことを覚えていないというのは、とても辛いである。

自分を育ててくれた両親、今まで連れ添って生きてきた夫婦、苦楽を共にしてきた兄弟姉妹・・・このような間柄で大切に思ってきたのに、久しぶりに会ったときに覚えていないというは、ショックという言葉では片付けられないだろう。

覚えていないだけでなく、全く興味を示さなかったり、排他的な態度をとられたときには、自分という存在を否定されたと同義な気持にもなるだろう。

このような場面を見ていると「生きているだけで十分」という言葉の重みと空虚さを感じてしまう。

それは「生きている」ということが、自分だけでなく大切な「誰か」によって支えられていることの気づきである。

また、大切な誰かが自分を覚えていなくても「生きている」という事実だけでも、人間は前を向いて歩けるという力強さをもっていることでもある。


――― 何だか湿っぽい記事になって申し訳ない。

別に認知症に対して不安を煽りたいわけではない。しかし、このような事例を伝えることもまた、認知症および高齢者介護に携わる立場として必要ではないかと思ってまとめた次第だ。

まだお互いに覚えているうちは、是非とも大切な人と顔を合わせてほしい。言葉を交わして欲しい。何なら、喧嘩してもいいと思う。それは今しかできないことだからだ。

それでも、できれば優しい言葉をかけてほしい。
高齢者だけでなく、誰もがいつ生命を終えるか分からない。

最後に交わした言葉で後悔しないよう、生きている間に、覚えている間に伝えておきたい言葉を伝えておくことをお勧めする。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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