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コミュニケーションは結局のところ、「慣れ」の要素が大きいと思う

介護の仕事はコミュニケーションが大半である。

そして「お年寄りと話すのが好き」「高齢者と関わるのが好き」として介護のコミュニケーションを楽しんでいる介護者は結構いる。

そのような介護者を観察していると、大きく2つのタイプに分かれているように伺える。

1つめのタイプは、一方的に自分がしたい話をしているだけの介護職員。自分の好き勝手に話をしていれば、それは楽しいだろう。

もう1つのタイプは、傾聴と受容を基本として利用者たる高齢者を主体としている介護職員。相手に興味をもちながら会話のキャッチボールを楽しむので、お互いに楽しい関係性が築ける。

どちらかと言えば、当然ながら後者のほうがコミュニケーションとしては良いということは誰でも分かるだろう。しかし、前者は悪気がないので注意や助言をしようにも何と言って良いか困る。

まぁ、いずれにせよ介護現場は大変だと言われている中で、高齢者とのコミュニケーションを楽しめることは良いだろう。



一方、「高齢者と何を話せばいいか分からない」という介護職員もいる。

というか、高齢者とのコミュニケーションに悩んでいる介護職員のほうが多いのではないかと思う。

そもそも、相手が高齢者に限らず、日本人は特にコミュニケーションが苦手であるように伺える。

それは、「以心伝心」「阿吽の呼吸」といった言葉があったり、「言わなくても分かる」「常識だろう」という言い回しがあることからも分かる。

もちろん、国外の方々だってコミュニケーションの悩みはあるだろう。しかし、ディスカッションの場においては「聞く(聴く)」「受容する」といった相手を尊重したやり取りが当たり前である。そのうえで自分の考えを「伝える」ということをする。

しかし、日本ではこのあたりを幼少期から養う機会がないまま社会人になるため、いきなりコミュニケーションの壁にぶつかる。

そのため、多種多様なコミュニケーション手段が存在する現代において、コミュニケーションの悩みから派生して、人間関係の悩みが大きくなってメンタルを病んでしまう人たちも多い。



他人事のように書いているが、私もコミュニケーションは得意ではない。

コミュ障とか「人と話したくない」とまではいかないが、正直、たまに3日間くらい誰とも話さずに過ごしたいと思うことはある。

特に仕事においては、介護という高齢者とのコミュニケーション前提の仕事であることもあるが、経営や運営として社内外に向けて説明や面談する立場にあるので、他人と関わることを避けることはできない。だからこそ、たまに意図的に孤立したいと思うのだ。

しかし、周囲からはコミュニケーション能力があると思われている。特に外部の関係者とのやり取りは、常に任されている状態である。

また、利用者たる高齢者とのやり取りも「どうやったら1時間も平気で話が続くのですか?」と相談されることもある。

何だか自慢しているようだが、別に自慢でもなんでもない。前述のように誰とも話さずに過ごしたいと思うようなタイプだ。評価されても困るし、できれば様々な対応は他の方にお願いしたいくらいだ。

しかし、この手の評価や質問に対してあえて言わせていただくならば、結局のところは「慣れ」でしかないと思っている。

つまり、コミュニケーションスキルというものは「慣れ」の集合なのだ。

私はコミュニケーションスキルが高いわけではない。

単純に同じ人たちを相手に何度も関わりながら、トライ&エラーを繰り返しているだけだ。それによって相手のことを知り、相手が何を話すが好きで、どういう問いかけをすれば喜ぶかを探っているのだ。

それが掴めれば、特に認知症の方でいつも同じことを繰り返しお話される方であれば、私は大体同じリアクションをすることで、相手も嬉しそうな表情をされる。

毎度毎度同じやり取りをすることは正直言ってしんどい。しかし、続けていくうちに「次はこういう反応をしよう」とか考えるし、「聞く(聴く)」「受容する」ということの体力もついていく。

これもまた心身が「慣れ」ているだけの話、と思っている。



上記で少し触れたが、ディスカッション1つとっても、コミュニケーションとは「聞く(聴く)」「受容する」そして「伝える」くらいしかない。

コミュニケーションで悩んでいる人たちにお伝えしたいことは、別にうまい言い回しをする必要もないし、相手を楽しませようとウケ狙いする必要もないし、場を盛り上げる必要もないということだ。

また、仕事において気の利いた雑談ができることも必須スキルではない。仕事では雑談ができずとも仕事の話ができれば上出来だ。

また、分かったふりをする必要もない。商談や交渉などの特別な状況を除けば、分からなければ相手に聞けば済むことだ。むしろ、分からなければ相手にどんどん質問すればいい。きっと嬉しそうに答えてくれるだろう。

実際、コミュニケーションにおいてはそこまで求められていない。

極論を言えば、相手に好き勝手しゃべってもらう状況に持っていければ、興味がなくても「へー」「なるほどー」「そうなんですねー」と言えばいい。

相手に良い気分を与えたければ、「そのお話、もっと聞きたいです」「例えば、どんなことがあったのですか?」といった問いかけをすれば、相手も悪い気はしないだろう。



このように考えると分かると思うが、コミュニケーションはそこまで求められている要素はない。

言い換えると、コミュニケーションをとる相手は、そこまでこちらに何かを求めていないということである。

たまに私も「あの言い方は良くなかったかも」「もう少し理解しやすい伝え方があったよなぁ」と反省することはある。

しかし、その後でよくよく考えれば、その場で言い方をちゃんと言えても、より理解しやすい伝え方ができても、そこまで結果は変わらなかったのではないかと思う。

「聞く(聴く)」「受容する」「伝える」に加えて、コミュニケーションは「そこまで自分に求められていない」ということに気づいていくこともまた、「慣れ」であると言える。

コミュニケーションに関する本を読んだり、ネット上に書いていることを参考にしても良いが、結局のところ回数を重ねて、試行錯誤してながら「慣れる」ということしかないと思う。

相手に不快感を与えることもあろう。失敗することもあろう。
しかし、それはそれで仕方がない。

誰からも好かれる人なんていない。誰かから好かれれば、誰かから嫌われるというバランスだってコミュニケーションの結果である。このようなこともまた「慣れ」である。


――― 本記事で一体「慣れ」という言葉を何度使っただろう。

しかし、それくらいコミュニケーションは、試行錯誤と気づきを繰り返しながらの「慣れ」が必要だということをご理解いただければ幸いである。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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