知育玩具という言葉への抵抗 でも「できる」って嬉しいし、「わかる」って楽しいんだよね。
手作り布おもちゃの立ち位置は微妙。柔らかい素材のせいか、手作りであるということのせいか、知育玩具じゃないです、情緒豊なお子さんの成長に寄り添うおもちゃです、的な存在だと認識されがち。
いや、それはそれでとても大事。
というより、私自身、どうしても自分の作ったおもちゃを「知育玩具」と言うことに抵抗が出てしまうのだ。
例えば、SNSの#に知育玩具 と、私はあまり入れない。あくまで私のおもちゃの方向性はそっちじゃないです、って顔をしてしまう。だけど、これを入れた方が断然アクセスが増えるのも事実。
3年前に本を出そうとしていた時、出版社サイドと折り合いがつかなかったのもここ。全面知育玩具と出したい出版社と、非認知能力をテーマにしたかった私と。
私の教室のママさん世代の生徒さんにアンケートを取ったら、見事私的な考えの方が多かった。「知育玩具って嫌いです」ってはっきり書いた方もいたし。
私の教室の生徒さんだから、もっともかもしれない。でもきっと世の中の主流じゃない。
私はとても頑固なので(余談だけど、迷惑を顧みずいまだに携帯を持たない)「何かができるためのおもちゃ」を作りたいんじゃない!と突き進んできたんだけど、少しずつ気がつきはじめてる。知育か非認知能力か、その境目は曖昧で相反するものじゃないんじゃないか。
一番人気のある「うさぎちゃん」という作品は、うさぎちゃんの人形を、お子さんの日常の生活と重ねながら遊ぶ布絵本で、その中にはロープを結んだり、ボタンをはめたり、時計の針を動かして練習ができるページがある。
「この布絵本で、孫がボタンをはめることができるようになったんです。そしたらそれが嬉しかったのか、1歳の弟の洋服のボタンを一生懸命はめてあげようとするんですよ。」
「時計が読めるのが嬉しいんでしょうねえ。外に出て時計を見つけると時間を言うんです。そしたら周りにいた大人がみんな褒めてくれるんですよ。それがまた嬉しいんでしょうね」
「できる」って嬉しい。「わかる」って楽しい。この当たり前のことを、私は「遊びにお勉強的要素を持ち込みたくない」っていうこだわりのせいで、ちょっとなおざりにしてきたかもしれない。
最後に「うさぎちゃん」の布絵本のボタンの留め外しができるようになったお孫さんの、大好きなエピソードを。
「じいじと一緒に寝てると、必ずじいじのパジャマのボタンをはずすんですわー」