2012年05月31日 少子化の原因 /06月06日 理性 vs 1億分の1のヒューマニズム -増長した悪魔-


2012年05月31日 少子化の原因

 現代において最も注目される社会学者デュルケイムを研究する限り、日本の少子化の原因は、女性大臣が取り組んできた税金を投入する国の諸政策、育児手当てや育児環境の整備などとは全く無縁であり、結果も出てきていないし、金輪際出てこない。

 なぜなら、結婚して経済的あるいは制度的に出産しないのではなく、そもそも結婚率が低く、未婚率が高いのであるから。私の知るごくごく少数の、結婚できたモテそうな男には、ほとんど美容師だが、すべて子供がいる。

 さらにいうなら、「彼女がいる確率」という概念で推し量れば、その圧倒的な低さ、私も含めて生涯に渡ってほとんど同世代の女性と全くコミュニケーションが取れなかったという団塊ジュニア世代こそが即ち結論であろう。

 デュルケイムに立ち返るなら、少子化の原因のすべては女性に対するしつけの至らなさである。

「一人っ子政策」の中国とは対照的な、日本の国としてのビジョンの欠落が、第一要因に上げられる。

 殊に団塊ジュニア世代は、受験戦争真っ只中であり、マニュアル型の教育水準を押し上げるだけで、殊に女子に対しては、デュルケイムが『道徳教育論』において唱える道徳、すなわち「社会的役割」を一切教えてこなかった。

 要するに日本の「政府」としてのコンセプトがないのであるから、絶対的な自由、それも女性に関しては排他的自由が支配的であるなら、社会的役割を意識しない若い国民にとっては、そもそも結婚や育児は苦役でしかなく、そういった苦役を伴う「建設的な意識」を忌避してきた。「建設的な意識」の必要性については、デュルケイムは『自殺論』において、「進歩の概念」を強調している。

 また、社会学の権威、デュルケイムが『道徳教育論』において強調するのは、「社会的存在」である。文化人類学の権威、レヴィ=ストロースが強調するのは、「女は関係の宝である」ということである。

 これら人文諸学の理論を総合して、哲学者としての結論をまとめるならば、少子化および日本という国の衰退、さらには我々団塊ジュニア世代の男の何の潤いも喜びもない、働くモチベーションを失ったニートを量産する不毛な人生の帰結とは、その原因の所在は日本という「国」および団塊ジュニア世代の女性の「排他的自由」に帰せられる。

 私が知る限りにおいての話だが、今40前後のこれらの女とは、「引きこもり女」、「ニート女」、あるいは木嶋佳苗のような「ブログ女」であり、良くてもそれらネットのコミュニティを利用して、めぼしい男と結婚はするのだが、いずれにせよ、働かず、出産せず、よって育児もせず…、社会に積極的に関わろうとしない者も多い。

 それも自由を人質にとっての反公共的な生き方の容認であると言われればそれまでだが、そもそも日本の今日の自由とは、自由を国是とする戦勝国アメリカによってたまたま付与されたものである。

 また、ここで哲学に立ち返るなら、ニーチェは自由それ自体を「何のための自由か?」と言って笑ったし、カントに至っては、そのような団塊ジュニアの女の放蕩は「自由」ではなく「自然」であって、あえてそれに逆らって貧しいのに犯罪を犯さない人間の意志こそが「自由」であると説いた。

 排他的自由とは、まさに人類の敵なのである。このような、デュルケイムが言う「進歩」とは真逆の「反進歩の概念」が跋扈している社会を私はいやいや生きているのだ。

 著名人で言えば、痩せこけて老け込んだ宮沢りえに、島崎和歌子、さとう珠緒…。上は国生さゆりや山瀬まみ、下は高嶋政伸と離婚するまで贅の限りを尽くした美元あたりまで入れてもいいが、これら子を産まぬ団塊ジュニア世代の女たちのモラルハザードこそが日本滅亡の序曲であると言えなくもない。少なくとも私たちの世代には青春はなかった。


2012年06月06日 理性 vs 1億分の1のヒューマニズム -増長した悪魔-
 

 マンガに映画、ドラマに小説…。

 それでも、「哲学書を読むな」と言った児玉清が読んだ建設的な英雄譚ならいい。

 それに「テルマエ・ロマエ」とか面白いものならいい。

 だが、自殺や拝金主義や退廃した日本社会を皮肉るだけの無配慮なヤツらのヒューマニズムは百害あって一利なしだ

 しかもそれは「他人」の「絵空事」だ。

 どんなに世を蔑んだものを空想して書こうと、ヤツらは印税をもらい、あなたがたは思う壺なのだ。

 「1億分の1の(それも架空の)ヒューマニズム」を真に受けるな。


 「人生とは何か」なんて考えるな。


 人に教えてもらうものではない。


 「他者性」とは宮台のような、人を見下し、見透かしたヤツが超越できるものでは決してないのだから。


 考える必要はない。

 自分のヒューマニズムを生きろ。

 私が言いたいのは、私の「いじめ加害生徒出席停止案」を取り上げてくれた、ヤンキー先生のような建設的なヒューマニズムはいい。

 …というか、むしろそういう建設的な成功例が小説とか映画になるんだろうけど。

 要は2ちゃんねるとか大人気の古谷実の自殺マンガとかで蔓延しているような(恫喝と法律論だけの「ミナミの帝王」とか「カイジ」などの薄っぺらい拝金主義も)、世に背を向けた、すねた感じの、ワケもなく他人を罵り、人間そのものをあざ笑うような、不毛なヒューマニズムが若者に支配的になっているのがキライなんで、私も根はヒューマニストなのかもしれない…。 


 基本は「哲学ギライ」の故・児玉清さんと一緒です。


 私は、キェルケゴールやニーチェのように、主観的に3Dにリアルの実存を生きつつ(女はどこにもいなかったけど)、それでいて、ヘーゲルのように俯瞰で物事を見た、主客と統一の本質論も好きだ。


 また、「既成の概念を破壊しろ」というのは、ニーチェもヘーゲルも一緒だ。

 だから私は、保守的で、気に食わない意見を言う奴や、タイプじゃない男をコミュニケーションそのものから排除する自由しか持たない同世代の女と真っ向から対立するし、そういう思い上がった精神は没落すべきと思う。 

 ひとこと

「団塊ジュニア」とは、上は捕まった菊地直子容疑者(1971)から、下は高嶋政伸の妻美元(みおん、1979)までを言う。菊池はまじめ過ぎるし、美元は未熟すぎるが、いずれも思いつめた感じで病的に暗い。

 但し、元オウムとはいえ質素な生活レベルで老人介護に明け暮れた菊地と、贅の限りを尽くして、自分のことだけしか考えない美元とでは雲泥の差であり、この二人に関しては年の違いがそのまま人としての違いであり、明白だ(全くどっちが犯罪者なんだと思うくらい…。人生とは皮肉なものだ)。

 でも一番人口が多いのは、私と同い年くらいの木嶋佳苗(1974)あたりだ。

 この年代は一概に年上だからと言ってまともだとは全然言えない。

 むしろここからヒドくなったと言える分岐点の年代であろう。

 私が知る限りでその辺の女の特徴としては、殺人は例外としても、ブログを開設して自分を褒めちぎる男や女友達だけを集めて、金と見栄だけでしか生きられない根は同じだ。

  増長した悪魔<日本の若い女>

 哲学者ヘーゲルは人間同士の命の奪い合いの中に、また哲学者バタイユは男と女のエロティシズムの中にそれぞれ「生のダイナミズム」を見出した。

 しかし、私は私の人生の一切において、私に危害を及ぼしてきた日本の若い女のみみっちい

 悪意に、彼女たちの取るに足らない生のダイナミズムを見出す。

 しつけられていない、自分勝手で、他者に一切配慮しない、幼稚で、感情的で、悪意に満ちた、私に対するあまりにも不条理で一方的な嫌悪の言葉、悪口の文章、罵り、無視、潔癖、被害者妄想、私の友達に対するざん言…。

「小悪魔」と言えば聞こえがいいが、正真正銘彼女たちの精神は下等な下衆の精神だった。

 まして、メディアや大企業によって無条件で承認されて、完全にコミュニケーションの主導権を握った、一切しつけられていないそんな者たちの精神の意志にこの国を委ねようといったのだから、宮台真司は誠に万死に値する国賊・エセ学者だ。

 未熟ながらも、露骨で激しい悪意をずっと目の当たりにしてきた私は、こんな下卑た人間はとても人間とは言い難いものだから、殺してもいいんじゃないか?という殺意に駆られることがある。

 ヤツらの悪意と私の殺意こそがある意味「生のダイナミズム」であり、そういった、私に対するヤツらのむき出しの悪意というものが、ヤツらの本性・内面の真実を私に知らせる。イスラム教が、ムハンマドがなぜ戒律で女を縛るのか、私には分かる気がする。

「自由」と言えば、アメリカも確かにそうだが、かの国の場合、プロテスタントやカトリックなどいくばくかの宗教倫理や、家族の意識、女性の自立心といった良識が悪魔の暴走に歯止めをかける。さらに、彼らは自由を与えられたのではなくて勝ち取った国ゆえに、自由に対する意識が日本の女どもとはまるきり違う。

 しかし、私が見てきた日本の若い女どもとは理性のかけらもない醜い動物・鬼畜そのものだ。

 太平洋戦争時、「マレーの虎」と恐れられた陸軍大将山下奉文が処刑真際に婦女子教育の重要性を説いたが、彼に敬意を払うために今年(2012年)靖国神社に行って昇殿参拝を行った。

 私の思いは英霊たちに通じた気がした。しかし、この国は未だ正真正銘下衆な悪魔に支配された劣った精神による衰退国家だ。

 私の青春とは、否今日に至るまで、若くて未熟な日本の女という悪魔に理不尽に悪意をぶつけられてきたことに尽きる。それはただ単に私が運が悪かっただけかもしれないし、若い女から見れば攻撃しやすいタイプだったということかもしれない。だが私の同級生や同僚、身内といった同世代の連中は、私以上に女性と接点のない、生涯一人身の男ばかりだ。

 私の精神は頑迷なまでに理性にこだわり、道徳哲学にこだわる。

 命を賭けてこの国の未来のために、この悪魔どもとの戦いを勝ち抜かんとする強い意志がこの胸にある。

 もちろん、性格のいい、悪意よりも笑顔が先行する、どこまで行っても純粋な、私よりもかなり年下の若い女性というのも私は見てきた。しかし、それは少なくとも私の経験主義によれば、とても一般論にはならないくらいほんのごくごく少数、「奇跡」だった。


 私は日本の社会衰退を克服するためには、そういう問題のない奇跡的な例外を無視してしまうような、「極論」と言われてもしかたない一般論を語っていかなければならない―。

 痴漢や盗撮は、客観的な証拠がなくとも、国家権力によって逮捕されて厳しく処罰されるが、女の肌の露出に関しては倫理的な制限がほとんどない。

 無知ゆえ道徳・倫理の必要性を知らず、ゆえに一切の女をしつけないで法律のみを盲信するバカ日本の典型的なバカ現象である。

 動物としては同じ「人間」でも、生理的欲求で逮捕されるのはすべて男、オスである。

 男の生理的欲求は即犯罪に直結し、女の生理的欲求は即収入に直結する。

 それでいて少子化だなんだと騒ぐ。 

「アホか、 オマエら(日本人)は?」 と。

 無知、無配慮、仕事のミス、無礼、暴言、無視、排除…。

  この国では、女であればすべて許される。

 ゆえに悪魔たちが、よってたかってこれら女たちに棲み付くと考えるのは見当違いだろうか?

 私が日本で生きてきた限り、学校でも職場でも、女であれば「王」であり、男であれば「奴隷」である。奴隷の身分から脱するために、私は海外に行きたい。そのために欧米で支持されていて、日本の女性が知らない音楽をやっている。マララがタリバンと戦うように、私も70年代から80年代生まれの日本の女たちと戦い続ける―。

 倫理・道徳を否定したバカ民族、日本人は著しい少子化を経て滅亡に近づいている。

 否、滅亡に値する民族であったのだ。


 阪神や福島は、そんな唯物快楽主義なだけの日本人に対して神が下した鉄槌ではなかったか? 少なくとも石原慎太郎は私に近い見解を持っている。

 私はそんな日本と心中するのはまっぴら御免だ!!

 ともかく40歳になる奴隷から一日も早く脱したい、と。


※こちらは2012年2012年05月31日から6月6日にアメブロで投稿された、現在非公開の記事となります。
 あくまで一哲学者の記録として保存することを目的とした記事であり、2020年現在の社会情勢にそぐわない部分があることはもちろん、私自身、道半ばの時期で、今の私自身とは異なる点も多々あり、ニーチェに影響された大変厳しい文章となっていますことを予めご了承下さい。


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