「在る」ということが大事、という話。
最近、彼女がある国に引っ越しをした。いま僕と彼女は別々の国にいる。
そんな状況が続く中で、少しずつ「在る」ということについて考えるようになった。
僕は9年ほど写真を撮っている。小学生くらいにフィルムカメラを使ったこともあったが、ほぼそんなことは覚えてない。
9年前僕が写真を始めようと思い、はじめに買ってもらったカメラはEOS kissのデジタル一眼レフだった。
それからというもの、写真=デジタルの写真であった。
先日、友人がカメラの話をしていた。そこで、「日常を切り取り、残していくことって大切」と友人言っていた。
そしてその話を聞いている何人かも、「そうだよね」と言っていた。
もちろんここで言う写真はデジタル写真である。
おばあちゃんは、この前僕のお母さんに頼み事をしていたらしい。亡くなったおじいちゃんが着ていたズボンの丈を
おばあちゃんが着れる丈にしてほしいというお願いだった。
僕は3回ほど、亡くなったおじいちゃんが使っていたパイプで煙草を喫した。
親は煙草の葉の匂いが嫌というので、おばあちゃんの家に行き、おじいちゃんの仏壇の前で喫した。
煙がどんどんと形を変えて最後には消えていく様がなんとも良かった。
僕は彼女が持っている指輪と揃いの指輪をつけている。
滅多に外さない。
「在る」を感じることはできる。しかし「在らざる」はいくら思い返しても、同じようには思い出せない。
僕は写真をしているから、写真で表現をしようとしてきていた。
でも、写真だけで表現するのはなにか違う、という声が僕の頭の中で最近良く繰り返されている。
なるほど、写真は万能ではなく、不完全で中途半端なものだったのか。
写真は、特にデジタル写真は、光をデジタルな信号に置き換え、原型を留めずに”記録してる風”に画像を生み出しているだけ。
それは真ではなく、明らかに、明々白々に偽であったのだ。
とまあ、こんな具合で、最近写真にめっきり愛想をつかしてしまっている僕がいる。
もし、写真を使うなら”明らかなる偽”としての像を生み出すことに利用する他ないのだろう。
最後に、この話のどんでん返しをしてこのつぶやきを締めくくりたい。
2週間くらい前だろうか、夢を見た。
彼女からプロポーズされ、オープンカー(だったか、オープンしないシボレーのスポーツカー)に乗って旅に出るというものであった。
夢を見ている時は、場面設定が良くできていて、本当にその場にいる感覚で、プロポーズされた瞬間は本当に嬉しかった。
「幸せすぎる」と思っていた。
しかしこれは、夢であった。目が覚めると、彼女のいるわけのない和室の布団の上に寝ている自分が在る。
夢の中では、今ここに「在らざる」者である彼女を、夢の中では「在る」と知覚していた。
脳の信号も結局の所は電気的で、デジタルなものである。
そして、「在る」ものを「在る」と知覚できる時もあれば、「在らざるもの」を「在る」と(一時的ではあれ)知覚するこの脳が、
自分のこれまでの思考の出発点であるということを考えると、
この思考、そして本当に「在る」というものさえ脳が見せている幻影なのかもしれない。
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