重なる通奏低音:『李陵』と『レイテ戦記』 第3回 中島 敦の生涯
第2回で、中島敦『李陵』と大岡昇平『レイテ戦記』に共通する通奏低音という枠を超え大岡の戦争に関する「原罪意識」まで踏み込んだ。
そこで、中島 敦 の人として、また文学者としての独特な立ち位置についても語ることとしたのだが、そのためには彼の生涯をある程度くわしく見ていく必要がある。
ところが、生涯と立ち位置を1回で書きつくそうとするとnoteへの一度の投稿としては長くなり過ぎる。
そこで、この第3回中島敦の生涯に焦点を絞ることとする。以下、『中島敦全集3』(ちくま文庫 第13刷 2011年)に所収の「中島敦年譜」に従いつつ、私見を交えて述べる。
前回はこちら
1.漢学者一家の生まれ
中島 敦〔以下、敦 と略記〕は1909年、旧制中学の漢語教師・中島 田人(たひと)〔以下、田人と略記〕の長男として生まれた。田人の父――つまり敦の祖父――中島 撫山は、埼玉県久喜町で門弟千数百人と言われる漢学塾を構えていた。
敦は、二代つづいた漢学者の家に生まれたのである。敦が後に中国の古典に材をとった作品を多数書くのは、彼自身が父親から漢学を叩きこまれ、それが血肉となっていたからである。敦のベースには、まず漢学があった。
2.複雑な生育環境
敦が1歳のときに両親が離婚し敦は母に育てられるが、2歳になると祖母と叔母に引き取られている。敦は6歳で父、田人のもとに戻ったが、そのときには田人は既に再婚しており、敦は継母のもとで育つ。
ところが、この継母が敦14歳のときに亡くなり、敦15歳で田人が再婚。敦は、新しい継母を迎えることになる。
これはかなり複雑な生育環境である。敦は、人生について、人の運命について、子ども心に様々なことを考えたに違いないと私は思う。
ただ、彼が孤独ではあったとも言い切れないようである。二人目の継母との関係は良好であったようで、彼女は敦が大変な困難を乗り越えて結婚する際に、大きな支えになっている。このことについては 5で触れる。
3.朝鮮半島での経験
1920年、父・田人が当時日本の植民地だった朝鮮半島の中学教員となったことに伴い敦は朝鮮半島に移り、11歳から17歳までの多感な時期を朝鮮半島で過ごすことになる。『中島敦全集3』に寄せた解説の中で、作家・日野 啓三 は次のように述べている。
少年時代、湿潤なこの島国(楠瀬注:日本のこと)の共同体的意識ではない乾いたアジア大陸的風土とともに、古くからの現地の人たちの伝統、習慣からも、日本本土のそれからも切り離されて育った……
『中島敦全集3』 ちくま文庫 第13冊 2011年解説 P464から抜粋
敦が支配する側の日本人でありながら、支配される側の半島の人々の心情を想像しようとしたことは、第1回で触れた。
私は、朝鮮半島での経験から、敦の中で「支配する側の視線とされる側の視線」が交錯するようになったと考えている。
4.旧制高校から大学
敦は17歳で旧制第一高等学校に入学し、日本に還って来る。21歳で東京帝国大学国文科に入学。国文科を選択はしたが、敦は外国文学にも通じていた。
中島 敦 と同じ京城(現ソウル)中学出身の 森 敦 から直接聞いたことだが、日本の文学者でカフカを読んだのは 中島 敦 が最初だろう、ということだ(もちろん原語で)。
『中島敦全集3』 ちくま文庫 第13冊 2011年 解説P463 から抜粋
敦の教養は、日本・中国・西洋の3つの文化圏にまたがっていたのである。
5.結婚をめぐる複雑な状況
1932年、東大在学中の敦は 橋本 タカ という女性と出会う。二人の出会いは、タカの人生に一大波乱を引き起こしたようである。ここでは、年譜から離れ『中島敦全集2』に所収の書簡Ⅰから抜粋する。
敦が 和田 義次 という人物に宛てた手紙から:
先ずタカ(楠瀬注:原文では「たか」だが、この抜粋ではタカを用いる)に貴方を裏切らせた罪は何といたしましても深くお詫び申し上げます。けれども私といたしましても始めから決して一時の出来心とか悪戯というつもりではなかったのでございます。
単に一時の出来心でしたら何を好んで貴方という方のついて居るタカを選んであのようなことを致しましょうか。
(タカが教育や年齢その他の点で私にはふさわしくなくはないかということは私も考えては見ました。けれども結局そんなことはどうにでもなる〔と〕存じます。教育が足りなければ私が自分で教育します。手芸その他に足りない所があればそれも習いにやらせましょう。私はどうしてもほんとうにタカと一緒になりたいと望んで居るのでございます。
(楠瀬注:第二段落冒頭の( は原文ママ)
『中島敦全集2』(ちくま文庫 第13冊 2011年 P321~323)
敦がタカに宛てた手紙から:
タカ、
もう大丈夫だよ。安心しといで。ただ、よくお父様やお母様にお願いして、和田の家と切って貰えばいいんだよ。
僕、此の間から、アパートはよして、駒沢(知ってるかい? 渋谷から、又、玉川電車に乗って行くんだよ)の方へ移って了ったよ。今度家がみんな引っ越してくるんだ。早く、お前も来られると、イイナ。
『中島敦全集2』 ちくま文庫 第13刷 2011年 P324~325
敦が妻に選んだ 橋本 タカ は、彼が属する知識階級とは異なる世界の女性だった。敦は自らが属する世界とタカが属する世界の間で、引き裂かれるような思いを味わったのではないか? 私は、そのように想像している。
敦の楽観的な予想とは裏腹に、二人の家庭生活の立ち上げは容易ではなかったようだ。タカが中島家に入籍し長男・桓(たけし)が生まれた時点で、敦とタカは同居できていなかった。一家3人がそろって暮らすのは、入籍から2年後、桓誕生から1年後の1935年を待たねばならなかった。
この結婚に際し、敦の二人目の継母は敦とタカを支え力を尽くした。敦の頼みで、周旋のため東京から名古屋まで足を運んだりもしている。
6.南洋諸島での経験
これは1-6で改めて触れるが、敦は生涯にわたって喘息に苦しめられた。
横浜の女学校で英語教師として働き始めた敦だったが、喘息が悪化のため転地療法を兼ね当時日本の統治下にあったテニアン、ヤップ、パラオ等の南洋諸島で働くことを決める。
1941年に南洋庁に入庁した敦は、植民地用の日本語教科書を作るための準備と調査に任ずることとなる。これが、彼の2回目の異国の社会・文化との出会いであった。
『中島敦全集2』(ちくま文庫第13刷 2011年)には、敦が南洋諸島を舞台に描いた短編9作が収録されている。また、『宝島』の作者ロバート・ルイス・スティーヴンソンのサモアでの生活を描いた中編小説『光と風と夢』(『中島敦全集1』に所収)を執筆したのも、この時期である。
私は、敦が朝鮮を舞台に描いた『虎狩』、『巡査の居る風景』からは朝鮮半島の人たちの内面に肉薄しようとする彼の意気込みを感じる。しかし、南洋諸島を舞台にした短編からは、どこか靴の上から痒い足を掻いているようなもどかしさを感じる。敦にとって、南洋諸島は習慣・文化の点で朝鮮よりずっと遠く、なかなかに理解しがたい世界だったのかもしれない。
ただ一つの例外は『マリヤン』という作品である。ここでは、コロール島の名家出身で日本の女学校に通った経験があり、西洋人との混血である叔父から英語も教えられたインテリ女性マリヤンの輪郭がクッキリ描かれ、彼女と敦ほかの日本人との関わりがユーモアを交えて鮮やかに描かれている。だが、そこには「痛ましさ」がある。作品から抜粋する。
突然、H氏(楠瀬注:敦とマリヤンの共通の友人である日本人)がマリヤンに言った。
「マリヤンが今度お婿さんを貰うんだったら、内地(楠瀬注:日本のこと)の人でなきゃ駄目だなぁ。え? マリヤン!」
「フン」と厚い唇の端をちょっと歪めたきり、マリヤンは返事をしないで、プールの面を眺めていた。暫くして、私(楠瀬注:敦本人)が先刻のH氏の話を忘れて了まった頃、マリヤンが口を切った。
「でもねぇ、内地の男の人はねぇ、やっぱりねぇ。」
偶然にもH氏と私とが揃って内地へ出掛けることになった時、マリヤンはパラオ料理のご馳走をしてくれた。
「おじさん(楠瀬注:H氏のこと)はそりゃ半分以上島民なんだから、又戻って来るでしょうけれど、トンちゃん(楠瀬注:敦のこと)はねぇ。」
「あてにならないと言うのかい?」と言えば、「内地の人といくら友達になっても、一ぺん内地に帰ったら二度と戻ってきた人は無いんだものねぇ」と珍しくしみじみ言った。
『中島敦全集2』 ちくま文庫 第13刷 2011年 P88~89
マリヤンは彼女が生まれ育ったコロール島とに日本との間で引き裂かれている。日本人になりたいと願いながら、絶対になれないことを自覚している。そこに、彼女の痛ましさがある。
7.生涯の宿痾、喘息
敦は19歳の頃から喘息の発作に苦しみ始めた。その後、喘息は敦の人生に暗い影を投げ続けることになる。
23歳で東大を卒業し朝日新聞の入社試験を受けたときは二次試験の身体検査で不合格となった。その後、敦は横浜の女学校で英語教師の職に就くが、1934年、25歳のときに生命を危ぶまれるほどの喘息発作を起こしている。
1939年、30歳となると喘息の発作はますます激しくなり、1940年の年末に、敦は友人に次のように書き送っている。
「何時やられるか判らないので、ビクビクしています。ひどくやられたあとはね、全く、生きるのがいやになっちまう」
『中島敦全集3』 ちくま文庫 第13冊 2011年 「中島敦年譜」P455から引用
転地療養を兼ねて南洋諸島での職に就いたことは、6で述べた。1941年、32歳のとき、パラオ島で激しい喘息発作を繰り返したため内地への異動願いを出し受理される。1942年3月に東京に帰還するが、気候激変のため激しい喘息発作と気管支カタルを発症する。
1941年5月には一応回復し、同年7月に初の小説集『光と風と夢』を出版し、8月には南洋庁に辞表を提出し9月に退職の辞令が出された。
1941年9月から喘息の発作が激しくなった。それを押して『李陵』と『名人伝』を書き継いだが、11月中旬になると心臓が著しく衰弱し、12月4日午前6時、ついに帰らぬ人となった。享年33歳であった。
喘息という宿痾は、敦に、常に生と死の狭間にあるような人生を強いたのである。
〈第4回(最終回)につづく〉
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