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私の読書遍歴(7)/悩みと不安の中で(前編)

今回は、今までの私の人生で最も悩み多く不安だった30代末から40代初めにかけて、すがるような思いで読んだ本について書きます。前・後編に分け、前編で私の悩みと不安について、後編で読み込んだ本について書いていきます。

画像出典:https://pixabay.com/ja/users/pok_rie-3210192/

1.私の悩み


  当時、職業人としてのキャリアについては悩み、家庭人としては強い不安を感じていました。

1-1.  キャリアの悩み

 私が大学を卒業して製造業の大企業に入社したころは、日本の大企業のほとんどで、人事異動で様々な部署と業務を経験させた従業員のなかから上級管理職を選抜するという人材育成方式がうまく機能していたと思います。
 私も、そのような育成ルートに乗っているひとりだったのですが、30代末から40代初めにかけて、自分は、本当にこのルートに向いているのだろうかという疑問が湧いてきたのです。
 

1ー1ー1.リーダーか調停役か 

 私は、30代後半に、人事部門で病気休職者の復職支援と社員の転職支援を担当しました。この経験から、自分は、社員のグループをまとめて事業を推進していくリーダーよりも、個々の社員と会社の間で利害を調整する調停役の方が合っているのではないだろうかと思い始めました。

 病気休職からの復職者には、治療の継続や就業上の配慮が必要な場合がほとんどです。つまり、復職してこられる方には、働く上での制約がある。
 一方、受け入れ職場の側には、復職するからには、病後とはいえこの程度はやって欲しいという要望があります。

 復職者本人の制約と受入れ職場の要望の間で、双方が納得できる折り合いをつけるのが、私の仕事でした。
 といって、私がひとりで全部やったわけでないことは、きちんと書いておかないといけないですね。
 
 従業員の病気休職と復職の決定には、必ず産業医が関与することが、会社の制度として確立していました。また、私は医療には素人ですから、産業医と緊密に連携しなければ、復職支援など出来ないのです。 
 その時の産業医の先生には本当にお世話になり、また、先生から非常に多くを学んだことを追記しておきます。
 
 転職支援ですが、これは、自ら転職を希望する社員の方を支援したのではありません。工場閉鎖にともなう人事施策として、転職希望のない方に会社要望として転職をお勧めしたのです。
 もちろん、本人には拒否権があります。また、まず出向の形で社外で働いていただいて、出向者と相手の会社の意向が一致したら転籍するという慎重な進め方をしました。出向期間は、従業員と相手先企業の双方にとって「お試し期間」なわけです。

 まず転職に同意していただく段階で、ご本人のお気持ち・生活上の事情と、私の会社の要望との間で折り合いをつける必要があります。
 ご本人が転職に同意されたら求人企業とのマッチングに進むわけですが、ここでは、ご本人のお気持ち・生活上の事情と求人企業の要望とを擦り合わせて折り合いをつける必要があります。その必要性は、出向から転籍に移行する段階ではさらに大きくなるわけです。

 どちらも大変な仕事でしたが、復職者のフォロー訪問でお元気そうに働いていらっしゃる姿を確認できた時や、出向中の従業員の方と先方企業がウイン・ウインの関係になって転籍が成立した時は、達成感とやりがいを感じました。

 復職支援と転職支援に手ごたえを感じ始めると、自分が、本当に心の底から上級管理職になりたいと思っているのだろうかと、疑問に思うようになってきたのです。

 入社以来、上司や先輩から上級管理職候補としての自覚や働き方を教えらられてきているし、その後に企業派遣で留学したアメリカのビジネス・スクールでは、アメリカ式のリーダーの在り方を教えられていました。
 しかし、日本式であれアメリカ式であれ、どうも、リーダーというものが自分には合っていないような気がしてきたのです。

 復職支援と転職支援の仕事での私の役割は、従業員の思い・事情と企業側の要請とを擦り合わせて折り合いをつける調停役のようなものでした。
 
 自分にはリーダーよりも調停役の方が合っているし、本当は、そちらの方が好きなのではないか? そういう気がしてきたのが、30代後半から40代初めの私でした。

1ー2.上級管理職か職人か

 私は、凝り性で、関心・興味を抱いたことは、とことん掘り下げたい方です。加えて、職人気質みたいなものがあって、特定の業に磨きをかけるのが好きです。
 
 しかし、そういう傾向は、私が乗っていた人材育成ルートとは、あまり相性が良くありません。このルートでは、ひとつの職場に3年から5年いたら、次の職場に異動です。

 このルートで求められるのは、職人的に自分の業を磨くことではなく、迅速に新しい職場の全体像をつかみ、そこにスピーディに馴染んでベテラン社員を使えるようになることです。

 より上位の管理職になると、このような職場と人材の掌握力がますます必要になってきます。なぜなら、社内の階層の上へ行けば行くほど、管轄する職場の数と社員の数が増えていくからです。
 隅々まで自分で把握して仕切っていくことは不可能ですし、もし、そんなことをしようとしたら、第一線の社員にとって迷惑なだけです。
 特定の分野や職務については、自分よりも経験も知識も豊富な部下を使って成果を出していくのが上級管理職の仕事です。その最終形が社長なわけです。

 自分に、本当にそういうことが出来るのか? それが本当に自分がしたいことなのか? と迷い始めたのが、30代後半から40代初めの私でした。

1-1-3.職業人としてのアイデンティティの不安


 その道に迷いを感じ始めたとはいっても、すぐに上級管理職を目指すルートから下りようとまでは、思いませんでした。いずれは部長になり事業部長や機能部門の長になり……というイメージが沁み込んでいたからです。
 そのルートから外れることは、職業人生での挫折だと、そう感じてしまう私がいたのです。40代の働き盛りで家族もあるのに、ここで白旗を揚げるわけにはいかない。そう思うわけです。

 今から振り返ると、当時の私は職業人としてのアイデンンティティの不安にさらされていたのだと思います。
 

2.家庭人としての不安

 
 職業人としては、具体的な悩みがあってそれが不安を生んだのですが、家庭人としては、具体的な悩みよりも、漠とした不安の方が大きかったと思います。

 私は結婚が遅かったので、30代後半から40代前半は、上の子(息子)が誕生から幼稚園にかけて、下の子(娘)が誕生から乳児にかけての時期でした。
 
 子育ては、子どもが何歳になっても大変なものですが、乳幼児期は子育てが最も混沌としている時期ではないでしょうか?

 常に子どもの事情が最優先なので、親がそれ以前の生活でなじんだ生活のリズムでは対応できないからです。特に、子育て初心者の親はものすごく混乱するように思います。

 一方、そのころ、私の両親は70代に差しかかっていました。二人とも元気で、孫の面倒をよく見てくれましたが、その姿を傍らで見ていると、ひたひたと老いの影が忍び寄っていることを感じずにはいられない。すると、10年後、20年後のことが案じられてくるのです。

 社会人現役で働き盛りの私は、第一に我が子、第二に我が両親を支える柱でなければならない。特に、私は一人っ子なので、両親に対する責任は重い。

 それなのに、私は、自分のキャリアについて迷い始めている。孔子は「四十にして惑わず」と言いましたが、私は「四十にして惑い初めた」のです。   
 こんなことで、この先、家族と両親に対する責任を果たしていけるだろうかと、ものすごく不安になりました。

 今にして思うと、一人っ子ということで、両親への責任を重く感じすぎたと思います。そのせいで、妻の両親を思いやる余裕がまったくなく、そういう点で、妻には本当に申し訳ないことをしたと思っています。

 人生とは、こんなにも大変なものだったのだと思い知ったのが、30代後半から40代初めの私でした。

後編はこちら


 


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