重なる通奏低音:『李陵』と『レイテ戦記』 第4回(最終回) 中島敦、どちら側でもない人
前回、中島敦の生涯を振り返った。私は、中島の生涯が彼に「どちら側でもない人」という独自の存在の在り方を意識させるようになり、それた『李陵』に色濃く反映されていることを述べて、この連載の締めくくりとしたい。
前回はこちら
1.「どちら側でもない人間」、中島 敦
私は、中島敦の 1-A. 成育環境、1-B. 二度にわたる植民地経験、1-3. 結婚に至る経緯、1-4. 生涯の宿痾である喘息が「どちら側でもない人間」という自己認識を抱かせたと考えている。以下、1-A、1-B、1-C 、1-Dについて、それぞれ説明していく。
1-A. 成育環境
中島 敦 は、生まれてから5歳まで実の父と離れて、実母(父とは既に離婚済み)、祖母・叔母に育てられ中島、6歳になって初めて実父に引き取られた。
当時は家父長意識が強い時代である。中島敦は二代続いた漢学者の家の跡取りになるはずの長男だった。そのような背景を考えたとき、中島 敦 の育てられ方を、私は実に奇異に感じる。
このような生育環境から、中島 敦 は、幼心に「自分は中島家に生まれながら中島家の人間ではない」という感覚を抱いたのではないだろうか?
1-B. 二度にわたる植民地経験
中島敦は思春期に朝鮮半島、成人後に南洋諸島と、二度にわたって当時の日本の植民地で過ごしている。
私は、中島が朝鮮の人々の心情を想像しようとしたことが、彼を理解するうえで重要だと考えている。
中島は朝鮮人と日本人は同じ人間だと確信して疑わなかった。同じ人間が支配する側と支配される側に引き裂かれることが、人間に何をもたらすか? 『虎狩』と『巡査の居る風景』で、中島敦はそれを描こうとしたのだと、私は考えている。
これらの作品を紡いでいる間、中島敦は、自らを、かなりの程度「朝鮮・日本のどちら側でもない人間」という位置に置いていたのではなだろうか? 「かなりの程度」と留保するのは、日本人である「私」を語り手にした『虎狩』の方が、朝鮮人である『彼』に語らせた『巡査の居る風景』よりも小説として優れていると感じるからだ。中島の想像力をもってしても、日本人である自分自身から完全に自由になることはできなかったのだと思う。
中島は、朝鮮半島の人々に比べると、南洋諸島の人々に対しては冷淡だと感じる。朝鮮と日本は同じ東アジアの国として儒教や漢字(当時は使われていた)など共通基盤があるが、南洋諸島と日本の間にはそのような共通基盤がないからだろうか?
ただ、中島が描いたマリヤンは、支配者の文化に馴化されたインテリ被支配者のひとつの典型たり得ていると思う。
私がまだ少年だったころ、欧米での生活体験のある日本人女性の一部が「日本人の男性は物足りなくて」という意味の発言をするのを聞いた覚えがある。私は、マリヤンを、そうした日本人女性と重ねて読んだ。
マリヤンは、自らを「コロール島の人間でもなく、日本人でもない人間」と意識していたのである。
1-C. 結婚にいたる経緯
中島 敦 は戦前の知識階級に属する人間だった。1935年ころの旧制高等学校は全国でわずか32校、生徒数は2万人以下だったことを考えると、旧制第一高等学校から東京帝国大学に進んで 中島 敦 が当時の日本社会では「超」のつく知識人だったことがうかがえる。
〔旧制高等学校数と生徒数の出出典はこちら〕
その中島が恋に落ち、結婚した相手の 橋本 タカ は、完全に庶民階級の出身だった。
どうも、タカは、学生たちが出入りするなんらかの遊興施設ではたらいていて、中島はその常連で、そこで彼女を見初めたようである。中島がタカに宛てた書簡に次のような記述がみられる。
杉本は論文制作中、パン子は今一人で(も一人の女、サボるから首にして了まった)忙しがってる。近頃田島が割によく遊びに来る。伊庭と、山崎さんは競馬。僕は学校。(?)
『中島敦全集2』ちくま文庫 13刷 2011年 P327~328
パン子は、クラブを止めた。故郷に帰って了まった。お嫁に行きます。先生の所だろう。三人で(楠瀬注:敦・タカ・パン子のこと)で仲良く過ごした時のことを思い出す。僕がパン子を連れて「サムライ・ニッポン」を見、お前が、伊庭と「ミス・ニッポン」を見たことがあったっけね。
『中島敦全集』ちくま文庫 13刷 2011年 P336
伊バ、杉本、田島、山崎忠ちゃん、皆、元気。倶ラブは今度、壁を塗りかえって、すっかり綺麗にしたけれど、あまり、客が来ない。鈴木、紅さんも、栄さんも少しも見えない。来るのは、昔からの人では、榊原さん。位なもの。慶応の連中は一人も来なくなった。
『中島敦全集2』ちくま文庫 13刷 2011年 P335~336
伊庭、杉本、田島は、おそらく中島の学友。パン子はタカの同僚。慶応の連中というのは、元はクラブの常連客だった慶応大学の学生たちのことだろう。この〝クラブ”がどのような〝クラブ″だったか、書簡からは明確ではない。
タカとの関係に関する限り、中島は、「自らが属する『知識階級の人間』でもタカが属する『庶民階級の人間でもない』」という感覚を持ったのではないいかと、私は考えている。
1-4. 生涯の宿痾である喘息
激しい喘息は、しばしば 中身 敦 を死の瀬戸際に追い込んだ。中島は、喘息の苦しみについて、次のように語っている。第3回と重複するが、大事な点なので、再度引用する。
「何時やられるか判らないので、ビクビクしています。ひどくやられたあとはね、全く、生きるのがいやになっちまう」
『中島敦全集3』 ちくま文庫 第13冊 2011年 「中島敦年譜」P455から引用
喘息のため、中島はつねに死と隣り合わせに生きていたのだ。私は、中島が「生きていながら死んでいる」という自己認識を抱いていたのではないかと考えていいる。
2.『李陵』の「どちら側でもない人」性
李陵は、中島が抱いていたであろう「どちら側の人間でもない」という自己認識を色濃く反映している。
漢のために危険な敵地侵入の任務に志願したのに君主である武帝の短慮から家族が死罪に処されたことは、李陵に「漢のために働いた人間でありながら漢から見放された」という意識を持たせたと考えられる。匈奴に囚われたが匈奴の王の厚意に感銘を受けていた李陵に自らの家族が死罪に処された知らせが届き、李陵は匈奴に加わることを決意する。だからといって、漢人として生まれ育った彼の過去が変わるわけではない。李陵は「漢の側でも匈奴の側でもない人間」という自己認識を抱いたに違いない。
ここで興味深いのは、漢人が漢文化よりはるかに劣っていると見なしていた匈奴の習俗を李陵が肯定的に評価していることである。
胡地の風俗が、その地の実際の風土・気候等を背景として考えて見ると決して野卑でも不合理でもないことが、次第に李陵にのみこめて来た。厚い皮革製の胡服でなければ朔北の冬は凌げないし、肉食でなければ胡地の寒冷に堪えるだけの精力を貯えることが出来ない。固定した家屋を築かないのも彼等の生活形態から来た必然で、頭から低級と貶し去るのは当たらない。
『中島敦全集3』 ちくま文庫 第13冊 2011年 P96から抜粋
李陵が実際に実際に上記のように語っている資料が残っているなら別だが(私は、そのような原資料は残っていないと考える)、そうでなければ、上の言葉は、中島敦が彼のものの見方を李陵の口を借りて語ったものである。
私は、ここに、植民地の習俗と文化を、日本文化からくる偏見を出来るだけ去って虚心に見つめようとした中島の姿勢が反映されていると考える。
匈奴の王は漢との戦闘について李陵の意見を求めたが李陵がこれを拒むと、二度と意見を求めなかった。このことが李陵の王に対する敬意を深めさせる。
ところが、李陵が匈奴を軍事指導しているという誤報が漢に伝わり、激怒した武帝は、李陵の親族一同を死刑に処してしまう。これを知った李陵は怒り、漢との戦いで匈奴を助けることを申し出て、王を喜ばせる。ところが、李陵は漢兵と闘うことが出来ず、独り引き返してしまう。
しかし、西南へと取った進路が偶々浚稽山の麓を過った時、流石に陵の心は曇った。曽て此の地で己に従って死戦した部下共のことを考え、彼らの骨が埋められ彼等の血の染み込んだ其の砂の上を歩きながら、今の己が身の上を思うと、彼は最早南行して漢兵と闘う勇気を失った。病と称して彼は独り北方へ馬を返した。
『中島敦全集3』 ちくま文庫 第13冊 2011年 P94~95から引用
李陵は、己が「漢人と匈奴のどちらでもない人間」であることに悩んでいた。そんな李陵の前に「どこまでも漢人であることを貫こうとする」蘇武が現れ、李陵を自己不信と劣等感に陥れることになる。
中島が自らのどのような感懐を李陵の自己不信と後ろめたさに託していたのか? これについては、私は現時点では理解できないでいる。
『中島敦全集1』、『中島敦全集2』、『中島敦全集3』――いずれも、ちくま文庫 13刷 2011年)に収録された作品・書簡・年譜を私が読み理解した限りでは、中島敦から李陵が抱いたような自己不信と後ろめたさに相当する感情は読み取れないのである。ただし、私は書簡のすべてを読んだわけではない。今後、書簡をすべて読み通せば、新たな発見があるかもしれない。
3.最後に
蛇足になるが、最後に、中島と大岡の内面体験について私がどう考えるかを述べて、この連載を終わりにしたい。
3-1. 中島の「どちら側でもない人間」性
私は、次の3-1-A、3-1-B の2つの観点から、これからの時代では自分を「どちら側でもない人間」の立場においてみることが望まれると考えている。
3-1-A. 世界のグローバル化との関係
グローバル化は国内の格差拡大をもたらし、それが多くの国でナショナリズムを勃興させている。また、コロナ禍は国境を超えた人の往来を制約している。
しかし、世界の大勢としては、グローバル化の流れは変わらないと私は考えている。また、日本は好むと好まざるとにかかわらず、移民の受け入れを拡大していくことになるとも考えている。
このような世界と日本国内の趨勢を考えたとき、私は、日本人と外国人が混在する環境では、自分を「日本人でも外国人でもない人間」の立場に置いて感じ、考えることが円滑な人間関係と社会関係を築いていくことに役立つと考えている。
3-1-B. 「開かれた社会」との関係
私は、現在の日本社会は、障害のある人たち、独自の発達を遂げた人たち、病を抱えた人たち、LGBTの人たち……等々の少数者を締め出し「いわゆる普通の人」の都合と便宜に奉仕することを目的に構築されてきた「閉じた社会」だと考えている。
これからの日本社会はもっと「開かれた社会」にならなければならない。お互いの人間性を尊重し合うという人としての原則に照らしてそうあるべきことはもちろん、労働力不足に対処するという現実の要請からもそうあるべきである。
日本社会を「開かれた社会」に作り変えていく上で、例えば、自分を「多数派でも少数派でもない人間」の立場において感じ、考えることが重要だと考えている。
3-2. 大岡の国家に対する責任感
大岡は、自分がやめさせることが出来なかった戦争、自分が許容してしまった戦争で大勢の兵士が命を落としたことに「原罪意識」を持ち続けた。
正直に言うと、私は、政府は阿呆で気が利かないものだから、個人としては政府の施策から被る被害を最小に出来るように立ち回ろうと考える人間である。
しかし、国家が個人の集合であり、しかも、幸いなことに、この国では民主主義と言論の自由が許されていることを考えると、国民に取り返しのつかない災厄をもたらす恐れのある政府の動きに対しては、「NO」と言える個人でなければならないと考える。
大岡の厳しい姿勢を私は非常に窮屈に感じるが、それに学ばねばならないとも考えている。
ここまで長い連載にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
「重なる通奏低音:『李陵』と『レイテ戦記』」おわり
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