新刊無料公開『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』 その5「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」3.四代目によるカツレツ発明話の大幅改変(後編)
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(無料公開その2「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」1.煉瓦亭という名のモンスターはこちら→)
(無料公開その3「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」2.煉瓦亭をめぐる証言の不可解さはこちら→)
(無料公開その4「第一章 煉瓦亭という名のモンスター 」3.四代目によるカツレツ発明話の大幅改変(前編)はこちら→)
四代目木田明利の代になって、煉瓦亭のポークカツレツ発明話の信用は地に落ちた。というのも明利が、父である三代目木田孝一のポークカツレツ発明話の筋書きを、大きく改変してしまったからだ。
なぜ木田明利は、改変がばれて信用を無くすかもしれないという、重大なリスクをとったのか。
それは、三代目木田孝一のポークカツレツ発明話が嘘だからだ。嘘がばれないように、四代目木田明利は三代目の話を大幅に改変せざるをえなかったのである。
それでは一つ一つ、改変の理由を探ってみよう。
まず、豚肉のコートレットが仔牛のコートレットに変更された理由について。
(中略 四代目木田明利はフランス料理に豚のコートレットが存在しないと考え、嘘がバレると思い「仔牛のコートレット」に話を改変した 詳しくは新刊『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』参照)
次に、「日露戦争(明治37-38年)後」という発明時期を「明治32年」に改変した理由について。
その理由は単純だ。日露戦争前の明治34年の料理書に既にカツレツが存在したことが判明。日露戦争後に発明したという話が嘘であることがばれたので、明治34年以前の明治32年に、発明の時期を設定しなおしたのだ。
三代目木田孝一の死の前年、昭和58年に『にっぽん洋食物語』(小菅佳子)が刊行される。そこで小菅は、明治34年の料理書『和洋簡易料理』に既にパン粉揚げのカツレツのレシピが載っていることを指摘したのである。
『にっぽん洋食物語』において、著者は三代目木田孝一に取材をしている。
おそらく取材の過程で、木田孝一は明治34年の料理書にカツレツのレシピが載っていることを知り、日露戦争後という発明話が嘘であることがばれると危惧したのであろう。
“日露戦争(明治37-38年)後に西洋料理が流行、多忙になったため”という設定を封印し、明治34年以前に既にカツレツを発明していたという改変を行ったのである。
これが『にっぽん洋食物語』における木田孝一の証言だが、「日露戦争後」という設定が消えて、開店時(明治28年)から程なくして繁盛店になり、人手が足りなくなったという話に改変されている。
嘘がばれたことによる改変は、三代目木田孝一の最晩年の時点から行われていたのだ。おそらく、発明時期の繰り上げは、三代目から四代目木田明利への申し送り事項となったのであろう。
初代山本音次郎から木田元次郎が煉瓦亭を引き継いだのは、開店(明治28年)から2~3年たった頃。なので、改変後の発明時期は、明治32年に設定された。
ところが小菅桂子は『近代日本食文化年表』において、明治29年の『日用百科全書西洋料理法』に既にカツレツレシピがあることを指摘。煉瓦亭発明説を取り下げ、否定している。
それではと発明の時期を再度改変、明治29年以前に設定しなおしたとしても、煉瓦亭のポークカツレツ発明話が嘘であるという事実は揺るがない。
なぜなら、現存する中では日本最古の西洋料理書、明治5年の『西洋料理指南』(敬学堂主人)において、すでにポークカツレツのレシピ「豕ノ油煮」が登場しているからだ。
その後も十数冊の料理書・雑誌に、パン粉をつけて獣肉や鶏肉を揚げるカツレツレシピが登場。明治10年代の終わりごろには料理名として「カツレツ」が定着、同じ頃に「カツレツ」が東京の西洋料理店の定番メニューとなっている。
どう話を改変したとしても、明治28年創業の煉瓦亭が、ポークカツレツを発明したという嘘をつき通すことはできないのである。
ポークカツレツだけではない。四代目木田明利が追加した煉瓦亭発明話のうち、当書のテーマに関連するチキンカツ、魚のフライ、カキフライ、エビフライ、メンチカツなどの発明、パセリの付け合せ、カツレツにウスターソースをかける習慣もまた、嘘であることをこれから証明していく。
煉瓦亭はたしかに日本西洋料理史上のモンスターであった。
ただしそれは、数々の重要な西洋料理メニューを発明した、という意味でのモンスターではない。
日本西洋料理史を嘘だらけにした、という意味でのモンスターなのである。