僕が会社を作った理由
別の記事でも書いたことがありますが、僕は2020年10月に株式会社Bikescape(バイクスケープ)を設立し、同代表取締役に就任しました。
ここで言うBikeとは、「バイク⤴(自動二輪)」ではなく「バイク⤵」、
つまり「bicycle=自転車」を意味しています。(つまってない)
簡単に言えば、美味しいラーメン屋を見つけたら、「この店知ってる?」って言いたくなるのと全く同じ感覚で、
僕は自転車が好きなので、その面白さ、かっこよさ、爽快さ、
などの素晴らしい面を、まだそれを知らない多くの人に届けたい、と思ったので、
そこにフルコミットしようと意思決定し、かつ同じビジョンを掲げる会社が他に見つからなかったので、自分でやるしかない、と思い会社を立ち上げるに至りました。
設立から1年余が経過しましたが、
この間は紆余曲折ありながら自社プロダクトの開発や関係各所との折衝を行いつつ、他にも新規サービスなんかを並行して開発しつつ、同時にサイクリスト向けメディアを運営する株式会社自転車創業にもジョインし、自転車業界に身を置く方々と日々コミュニケーションしながら、業界を広くフラットに眺めて課題を発掘する、ということをしています。
2022年頭(と言ってもすでに1ヶ月終わりましたが)ということで、良い機会なので初心に返りつつ、改めて世の中を眺めてみたいと思います。
世の中を見渡してみると
①相変わらずコロナコロコロ
デルタだかオミクロンだか、シータだかパズーだかという違いはありますが、コロナ禍をきっかけに生活にいろいろな制限がかかったり、かと思ったら逆に自由になった部分もあったりして、
今まで生活の基盤だ、って思ってた部分が実はそうでもなかったりして、「あれ、意外とこれっていらなくね?」「やっぱ住環境大事だよなあ」とかって思った人は多いはずで、
ご多分に漏れず僕自身も「いかにして、ヒトはより良く生きられるだろう」「僕にとって、また僕の隣人にとって、よく生きるってどういうことなんだろう」なんて、気がついたら思いを馳せてる瞬間が増えました。
自由だなんだと言いながら、結局「会社の近くに住む」を前提としていたことに気がついちゃった。「いやそんな必要もうないじゃん!」ってなって、
「え、どこにでも住んでいいの?じゃあどこに住もう、、」って逆に戸惑ったのは、僕だけじゃない、はず。
たぶんそのうちオメガ株とか出てきたり、第32波来ましたねえとか言いながら、もうしばらくはコロナとの駆け引きが続くんだろうなあと思いつつ、
ヒトがより良く生きたいと思う根源的な欲求も高位安定して、それに対してまっすぐ応えるような「よく生きる」ためのサービスなんかも新しく出てきたり、磨かれてきたりして、僕たちの消費行動も変化を続けるんだろうな、とぼんやり思っています。
②個人の幸福か、公共の福祉か
人は誰しも幸福を追い求める権利を持ってるけど、でもそれは他人に超迷惑、みたいにならないようにしようね、という考え方があります。
この1年で強く実感したのは、「社会的に良いとされている考え方やルールが、必ずしも個人の幸福に資するわけではない」ということでした。
これは逆も然りで、個々人はもちろん幸せでいた〜いと思いながら生きて、それを最大化させたいけど、それは必ずしも、社会全体から見たときにも最適なわけではない、ということになります。
わかりやすい例が、それこそコロナ蔓延防止のための人流抑制とかで、
そりゃー医療のこととか、そもそも死んじゃう人を少なくしたいって考えたら、「みんなで外に出るのやめようぜ!」っていうのが良いように思うし、
僕自身も(ワクチン対象年齢以下レベルの)小さい子供がいる親として、なるべく市中感染が起きそうな状況は避けたいって思います。
でも一方で、感染しても全然重症化しない元気な若者の中には、「ほげぇーー!!外出てええええ!!」って思う人もいるだろうし、店を開けないと収入がなくなっちゃう飲食店とかは「おいおいおいおいおいおいおいおいいいいい」って思うかもしれない。
みたいなことをヘラヘラ考えているわけでございます。
③資本主義は踊り場に来ているのか?終焉するのか?
仕組み上、成長 or Dieが原理に組み込まれている資本主義において、成長を志向しないというのは難しいんだろうと思うし、そもそも資本主義自体をやめちゃおうぜ!社会主義で行こうぜ!っていうのももはや難しいように思うけど、
一方で個人の価値観、という観点では、経済的成功や経済成長が大前提で、
金持ちかっけぇーとか、ヒルズ族(古い)モテモテ〜とか、金を稼いでる人が偉いし幸せなはず、みたいなイデオロギーには終焉が見えてきたような気がしています。
そういう価値観を持つ人が全くいなくなることはないと思うけど、そうじゃないいろーんな価値観が超細分化して個人に根付くことで、結果的にマジョリティではなくなってゆくような、そんな気配を感じます。
「よく生きることとよく働くことは不可分なのだ」と、当たり前のようで忘れていたことに改めて気がつき、お金ではなく「価値観」で仕事をする気持ちの良さを知ってしまった。
お金がもらえれば何でもやるわけではなくって、働くときもそのサービスを受けるときも、人によっても立場によっても異なり、かつ変化する「幸福」を各人がどう叶えるか、という論点が浮き彫りになったように思います。
④生活を取り巻く枠組みの変化
例えば、国!とかってめちゃめちゃステーブルなもので、それを土台にして全てが成り立っているように思えるけど、
日々の生活の蓋を開けてみると、生活を形作る枠組みは国家以上に、企業によるものが大きかったりします。
僕たちのライフスタイルは「どの国に住んでいるか」よりも、「どんなアプリを使っているか」とかによって規定されている、そんなイメージです。
翻って、国というものを「私が所属する集団」ではなく「私と切り離された個人(とか企業みたいなもの)」と捉えると、「税金という対価を払って、いろんなサービスを提供してくれる人」と考えることができます。
例えば携帯電話の会社は電波が安定したところに切り替えたくなるように、
例えば縁もゆかりもない自治体にふるさと納税するように、
例えばメインのコミュニケーションはLINE派の人もMessenger派の人もいるように、
国、っていう枠組みも、サービスとその対価のバランスによって個人が選択するような考え方もあるように思います。
どうせ家にいる時間が長くて、遊びも仕事も割と家の中で完結するわけだから、家の外に広がる世界の大事さが相対的に下がってきている、ような感覚を覚えます。
そんな世界で、それでも人と生きるということ
そんなこんなで、実生活で出会う人はどんどん少なくなる一方、自宅にいながらにして新たな人とであう機会は増えたりして。
じゃあそんな環境において、それでも人と会う時、というのはどんな時だろう?それでも会いたい人とはどんな人だろう?
それでも訪れたい場所、それでもしたい体験、ってどんなものだろう?
そんなことを思いつつ、
僕はやっぱり、個人主義的幸福を最大化することに軸足を置きたい、と改めて思います。個人が幸福でない社会が継続することにあまり意味を感じないし、結局僕自身も個人としての幸福を最大化させたいし。
ただ、一方で、娘やその次の世代に、地球を残しもしたい。より良く、生きやすい世界を残しもしたい。
だとしたときに、自転車ができることってなんだろう(唐突)
個人が幸福になる手段、を考えると、結論そんなもんは「人による」
以上!
とは思います。
ただ、一歩引いて考えてみると、幸福は「なる」ものではなく、「追いかける」ものではなく、「気づく」「知る」ものだとも思います。
仏教的な言い方だと、「足るを知る」ということ。
それが「よく生きること」と超!密接に関わっているように思うのです。
そう思った時。
自転車に乗って、いつもの道を通る。
いつもの道だけど、日々変わってゆく風の匂いを感じる。自分の呼吸を感じる。それは紛れもなく「日々を生きている」だけの幸福を感じやすくなる瞬間で、ああ、これだけで十分、と思ったりするのです。
もちろん、自転車でなくたっていい。
ランニングでもいい。ゲームでもいい。仕事でもいい。ヨガでもいい。キャンプでもいい。なんでもいい。
でもたまたま、僕にとってはそれは自転車だったから。
同じように、それが自転車な人は他にもたくさんいる。
だから僕は、もっとみんな自転車に乗ればいいのに〜〜と思いながら、
まだ自転車に乗ったことのないあなたが、今日は自転車に乗ってくれるといいな、と思いながら、
今日も明日も「自転車サイコーーー!」と大声で騒ぎ続けてみようと思うのです。
ということで、年に数回発生するエモ祭りから中継でした。
現場からは以上です!