「そうだ。富山、行こう」
新聞を読んで、すぐに決めた。「そうだ。富山、行こう」
昨年、右膝を痛めてから年1回の山登りに行けてない。だいぶんよくなったけれど今年もパスした。アルプス、登れなくても見るだけでもと思っていた。そんなときに、「生誕90年 井上ひさし展」があると新聞に載っていた。場所は富山、天気がよければ立山を望めるかもしれない。
井上ひさし展は「高志の国文学館」(富山市)で開催中だ。正直、彼の作品とはそれほど深くない。とっかかりは「ひょっこりひょうたん島(1964-69)」、小学生の頃に毎日見ていた。中山千夏さんの歌も耳に残っている。次は「手鎖心中(1972)」直木賞のときに読んだ。高校生だった。あとの「吉里吉里人(1981)」は長いし、戯曲はパスし、ずうっと長い間ごぶさたしていた。
「青葉繁れる(1973)」を図書館から借りてリュックに入れた。読んだようにも思うけれど、記憶になかったから。
東京からの「かがやき」、大宮の次は長野で富山まで停まらない。新聞を読み、おにぎりを食べ、景色を見ながらウイスキーをちびちびやっていると、もう着いた。「青葉繁れる」の予習時間はなかった。
「高志の国文学館」は富山駅から歩いて15分くらい。独特の、あの丸っこい字が展示会場を埋めつくしていた
圧巻は作品づくりのための年譜だった。樋口一葉(「頭痛肩こり樋口一葉」)、小林多喜二(「組長虐殺」)らの生誕から没年まで、B4(A3)紙をつなぎ合わせ、細かい字でぎっしりと手書きメモが書かれていた。
手書き。万年筆(ペリカン)に青インキ(ウォーターマン)で書いているのに書き損じが少ないことが不思議だった。清書しているのかしらと思うほど、几帳面に、丁寧に書かれている。
比して、自分のノートは後で読んでもわからない字が多い(わたしも同じペリカンにウォーターマンだけど、なぐり書きに近い)。せっかくのメモやノート、後で読み返すように書くものなのだと今さらながら気がついた。
これがいちばんの収穫だった。
そうそう、「青葉繁れる」はそのまま開かずに帰った。
立山、剣岳は電車から遠見、車中も半分はうとうとで帰った。