話は全く変わりますが、今からおよそ265年ほど前、アメリカが独立するよりもまだ前、1754年~1763年、ヨーロッパは世界大戦の様相を呈していました。7年戦争は、プロイセン(第3代王 Friedrich II)とオーストリア(ハプスブルク家 Maria Teresia of Bohemia)が対立し、イギリス(George II)がプロイセン、フランス(Louis XV)とロシア(Elizabeth エリザベータ)がオーストリア側に立ちました。イギリスとフランスはアメリカ大陸等、植民地でも戦争状態でした。最初は、オーストリアとフランス・ロシアの連合軍が優勢だったのですが、やがて転換点が訪れます。1757年11月5日、Battle of Rossbach(ロスバッハの戦い)で、フランスは大敗を喫して、流れが大きく変わりました。プロイセンのFriedrich II、勢いづきます。この後のBattle of Leuthen(ロイテンの戦い)とあわせ、プロイセン・イギリス側の勝利への大きなポイントになりました。ロスバッハはライプツィヒの西に位置する要衝です。ロスバッハの戦いに敗れ、兵力の7分の1を一挙に失ったルイ15世を励まそうと、Madame de Pompadour(ポンパドゥール夫人)が言ったとされる言葉が有名です。ポンパドゥール夫人、ふっくらした方ですね。ルーブル美術館でも肖像画を見ることができました。
ポンパドゥール夫人が言ったとされるのは "au reste, après nous, le Déluge" (英訳 "Besides, after us, the Deluge")です。 日本語では「我が亡き後に洪水よ来たれ」と訳されることが多いようです。Deluge は、旧約聖書の創世記に出てくる大洪水です。ノアの方舟の物語でよく知られています。ちょっとやそっとの水害ではなく、ノアの家族と方舟に乗って生き残った動物たちを別にして、全世界が滅びてしまいました。ポンパドゥール夫人は、ロスバッハの戦いの敗北による戦局不利が将来に及ぼす大きな懸念を、いまはあまり心配しないようにと、ルイ15世を励ましたかったのでしょうか。実際のところは、七年戦争におけるフランス敗北の損失はとても重大でした。例えば、北アメリカにおける植民地の多くをイギリスに奪われてしまいました。
このポンパドゥール夫人の言葉は、およそ100年後、まったく違ったところで登場して有名になります。かの Karl Marx の Das Kapital (資本論, 1867)に出てくるのです。ルイ15世もポンパドゥール夫人も生きていたらびっくりでしょう。資本論第1巻、第10章、5節です。インターネットで閲覧できるようですので、該当部分を太字で表示しておきます。詳しく言えば、ポンパドゥール夫人は après nous と言ったのに、資本論では après moi と複数(私たち)が単数(私)に置き換わっています。それは、おそらく、ルイ15世がポンパドゥール夫人のこの言葉を気に入って、いろいろな折りに触れて話をしたときに、moi に置き換えて言うことが多かったからでしょう。そのため、「自分が死んだあと、立ち去ったあとは、野となれ山となれ、どうなろうと自分の知ったことではない」という自己中&無責任発言の文脈になっています。「立つ鳥あとを濁さず」の真逆をもっともっと悪くしたみたいなものです。