見出し画像

「神の子どもたちはみな踊る」を読む(分析編1)

舞台「神の子どもたちはみな踊る」のビジュアルが公開された。
まっすぐな、鋭くこちらを見据える古川雄輝さんと、瞳の奥に無限の空間を湛えているような松井玲奈さんの佇まいには、透明感が溢れている。
キャッチコピーは「『再生』を求めて、彼らは前を向くー。」

前回noteで、原作について「切り離された過去と未来を、それぞれが、それぞれのやり方で繋ごうとする物語の集合体」と書いた。
今回から、もう少し具体化して考えてみたい。

それぞれの物語で描かれるのは、次のいずれか、または複数をまたぐフェーズ(局面)である。

(1)地震に関する情報を得る
(2)過去と未来は絶えず続いていくものではない、と気付く
(3)過去と未来をつなぐためになんらかの行為を行う

まずは「UFOが釧路に降りる」から。
※以下、ネタバレを含む

小村の妻は、大震災のニュースを見る(1)うち、(2)の局面に立つようになる。そして小村を捨て、故郷に戻ることで過去の一部を切り離す(3)。
小村と過ごした日々と共に、震災の記憶をもなかったことにしたのだろうか。

一方で小村は、(1)の段階において、妻が出て行ったことに傷付き、落ち込んでいるが、地震の影響を受けている自覚はない。
しかし、知らず知らずのうちに地震のイメージに浸食されており、それがシマオさんと性行為に及ぼうとする際に妨げとなる。

シマオさんと関係を持つことに失敗した後、シマオさんはこう言った。
箱の中に小村の中身が入っていて、それを小村自身が佐々木の妹に手渡してしまった。もう中身は戻ってこないのだ、と。

しかし果たして、そもそも小村の中身は存在したのだろうか。小村の妻が言うように、小村は元々「空気のかたまり」で、シマオさん・佐々木の妹との関わりを通して、空虚な自分自身に気付いてしまっただけなのではないか。
その気付きを得て、小村は「ずいぶん遠くに来たような気がする」と実感するのだ(2)。

最後にシマオさんが言う「でも、まだ始まったばかりなのよ」という台詞は、この後小村が(3)へ向かう示唆か。
始まったのは、空っぽな自分自身と向き合う、葛藤の時間なのかもしれない。

UFO、熊の鈴、鮭の皮…と、気になる要素は多々あるものの、一旦次へ。
続く。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集